【 空冷エンジンの夏 】
◆D7Aqr.apsM




96 名前:No.22 空冷エンジンの夏 1/5 ◇D7Aqr.apsM 投稿日:08/04/21 01:07:36 ID:ks3diZG2
 バサバサという特有のエンジン音。あたしはドアの上端に肘をのせ、のんびりと車を走らせていた。午後の
日差しは強いものの、適度な海風があるので耐えられないほどではない。
「これ、買われたんですか?」隣で髪を押さえる後輩の風香ちゃんは、空を見上げて顔を輝かせていた。
「いや、学校の先生がもてあまして腐らせかけてあった奴を、もらって直したの」
 床からびょん、と突きだしたシフトレバーを操作しながら、あたしはこたえた。ワーゲン。タイプワンのコ
ンバーチブル。カブトムシなどと呼ばれる車は、薄い水色のボディをしている。幌は全開。
「凄いですね。やっぱり……寮長さんだけあって」
「や、寮長だからってわけじゃないけど。機械工学科なら修理くらいは、ね」
 とある高専の女子寮。あたしはそこの寮長を務めている。寮母さんとも話をつけた盆休み。ただ一人、寮に
残ってのんびりとした生活を……と計画していた所に、帰省したはずの寮の後輩が舞い戻ってきた。丁度、あ
たしが彼女の買っておいたプリンを食べてしまった直後に。食堂に駆け込んできた後輩のあわてぶりを思い出
して、くすり、と笑ってしまう。
「おにーちゃん! そ、それあたしのぷじん!」
――ぷじん?
 プラスティック製のスプーンをくわえたまま、あたしが振り返るとそこに後輩の風香ちゃん。柔らかそうな
栗色の長い髪に大きな二重の瞳は、そのまま人形のよう。白いワンピースに麦わら帽子。こんな子に「おにー
ちゃん」って言われたら、男子はたまらないんだろうなあ。あたしにその趣味はないけど。気持ちは分かる。
「先輩、なんだか笑ってるみたいですけど。――もしかして、何か思い出したりしてませんか?」
「え? なんでなんで? 何も思い出してないよ?」
「それならいいですけど」
「うん。ぷじん、ってのも美味しそうだなあ、って思ってた所」
 いやあー! と風香ちゃんは足をばたばたさせる。大きな左カーブ。のったりと車体がかしぐ。
「ところで、なんで電車に乗り遅れたの?」
「え! あ。その」
「秋津さん、結構早くに寮を出てたよね?」
「…………あの。本を読んでまして。その、気がついたら電車が遠くに」
 ぽつりとつぶやく。あたしは彼女を見て、自分が何か大切な物を忘れてきてしまっていたような気分になっ
た。可愛いってこういう事? お盆。指定席は完売、乗車率百五十パーセントの列車を前に彼女は寮へ引き返
してきた。そんな彼女を、あたしは家まで送り届ける事にした。まあ、プリン、食べちゃったし。
「ま、そんなこともあるよね」笑うあたしを、ふくれた顔がにらんだ。


97 名前:No.22 空冷エンジンの夏 2/5 ◇D7Aqr.apsM 投稿日:08/04/21 01:07:48 ID:ks3diZG2
 加速すると身体が風に包まれる感覚は、オートバイとも違う、屋根なし車特有の感覚だった。
「暑いよねー。ごめんねー」この車にエアコンはない。風に負けないように叫ぶ。カーブを小さく曲がると、
視界が一気に開けた。海。
 風香ちゃんは歓声をあげた。海沿いの道。ガードレールの向こうに、光る海が見える。夏の空の青と、海。
水色のボディ。あたしは少しシートに深く座り直して、わざと道を視界の隅においやった。水色の世界。速度
計や回転計、身を乗り出す風香ちゃんのワンピースだけが白い。
「オープンカーって初めてです」
 後輩は風にもてあそばれる髪を押さえながらあたしに向き直った。サンバイザーの角度を変え、風を遮って
あげる。小さな板きれだけれど、これでずいぶん顔にあたる風は違う。
「大丈夫?」
「気持ちいいです。――その、ちょっと、恥ずかしい気もしますけど」
 すれ違う車や追い越していく車のドライバー達は、みな一様にこの車を眺めていく。クラシックといっても
良い車に、女子二人だ。まあ、気持ちはわからなくもない。
「ちょっと休憩とかする? もう少ししたら海の家とかあったはずだし」
「はい!」
 元気な返事。空は青く、太陽は暑い。夏休みのちょっとした小旅行。

 動いているものは止めちゃいけない。壊れてないなら直すな。油が漏れるのは油がはいっているから。そん
な格言を思い出しながら、あたしは車体の後にあるエンジンフードを開けた。熱気が立ち上る。海沿いの駐車
場で休憩した後、車は動かなくなってしまった。海に消える夕日が赤い。
「あちっ! あー……風香ちゃん、ちょっとかかるわ。見当はついてるんだけどエンジンがもう少し冷めるま
でさわれないから」
「だ、だいじょうぶですか」あわてた様子で麦わら帽子姿の後輩は、あたしの手をのぞき込む。
「大丈夫だよ。五年生のお姉さんを信じなさい」
 でも、冷やした方がいいです。という彼女の言葉に従って、一口飲んでから、手渡されたラムネの瓶をやけ
どしてしまった所に当てた。ひんやりとした感触は、不思議とどこか丸みを感じた。
「あの、吉川先輩は、その――」
「たまき、でいいよ。――こんなところにまで来て寮長もあったもんじゃないし」
「あ、じゃあ! あたしも、その、風香、でお願いします」
 あたしはコンクリートブロックの上にぺたりと座りこんだ。ワンピース姿の風香ちゃんは車のドアを開いて、


98 名前:No.22 空冷エンジンの夏 3/5 ◇D7Aqr.apsM 投稿日:08/04/21 01:07:59 ID:ks3diZG2
シートに横座りした。ぼんやりと二人で夕日を眺める。
「あの、たまきさ……環先輩は、その、どうして帰省されないんですか? ご実家って結構近いですよね?」
 あたしはラムネを飲み干すフリをしながら空を見上げた。若いなあ、と思う。
「あ、携帯、鳴ってます」
 運転席に放り出しておいた携帯電話を風香ちゃんが取り、差し出す。液晶に小さく「タカシ」という文字。
少しだけあたしは迷って、そのまま着信を無視した。
「あの、いいんですか? 外した方がいいですか?」
 立ち上がりかける風香ちゃんに、あたしは首を振った。まあ、時間はあるし、余興にはいいだろう。
「いいの。これさ、弟からなんだけど……。その、なんていうか。ちょっと前に告白されちゃってさ」
 風香ちゃんが、目を見開くのを目の端にとらえながら、あたしは続けた。
「好きだ、って。今考えると、ばっかじゃないの! って感じなんだけど……真剣だったみたいで。まあ、そ
の、それなりに仲良くしてたんだけど。――でもさ、変じゃない? やっぱりさ。姉弟だし。だから、ちょっ
と距離、おきたくて。それで寮に入ったの」
「な、仲良くって、その。――す、すみません!」
 思わずもれた言葉に、風香ちゃんは自分でも驚いたのか、すごい勢いで頭を下げた。あたしは思わず吹き出
してしまった。
「あー、や、ないない。その、まあ、断り切れなくて、ちゅーは一回だけ。奴は奴なりに、今はいろいろ考え
てるみたいなんだけどさ。あたしもちょっと時間がほしい。……そんなところかなあ。わっけわからないよね」
 は、そ、そうですか。耳まで真っ赤になって、風香ちゃんはさらにうつむく。しばらく、固まったようにう
つむいた後、一つ大きく息を吸って、彼女は顔を上げた。
「――ちょっとだけ、弟さんの気持ちは分かります。あたしも、同じようなものですから」
「え?」
「だめだって分かっていても、どうしようもない気持ちって、あるんです。きっと」
 昼間の食堂での出来事を思い出す。近しい存在。プリンをいつも食べてしまう人。許されない気持ちの向か
う先。また風香ちゃんはうつむいてしまった。かけるべき言葉を探す中、波の音だけが二人の間を渡っていく。
「その、風香ちゃん。その人って、いつもプリン、食べちゃう人……かな?」
 ふるふる、とうつむいたまま、風香ちゃんは首をふる。何度目かの深呼吸。シートに座っていた風香ちゃん
が、静かに立ち上がった。白いワンピースは夕日で赤く染められていて、ふわふわとウェーブのかかった栗色
の髪と一緒に海風になびく。
「先輩。――環先輩」


99 名前:No.22 空冷エンジンの夏 4/5 ◇D7Aqr.apsM 投稿日:08/04/21 01:08:13 ID:ks3diZG2
 あたしはただならぬ雰囲気に立ち上がった。どうしたの? 肩をつかもうとする手を、彼女は両手で包むよ
うに握り、自分の胸元に引き寄せる。彼女が口を開く。ひゅっと喉が鳴り、吸い込まれる息。薄い、桜色の唇
の間から見える、真珠みたいな歯。あたしを見つめている大きな瞳は、何故か涙で潤んでいるようにみえた。
「ごめんなさい。――でも、好きなんです」
 これは冗談なんかじゃない。傷つけちゃいけない。頭の中を弟の姿がよぎる。白く沈んでいく自分の中に、
言葉を探していく。
「スイカ、もっていかんかね?」
 そう。スイカ――――――思わず顔を上げる。誰の声だこれ。
 あたし達の横に、赤銅色に日焼けしたおじさんがスイカを抱えて立っていた。

オレンジ色の街灯が、行く先をぼんやりと照らす中、あたしは車を走らせていた。すっかり日が暮れた海岸通
り。エンジンルームの熱気が、足下から伝わってくる。
 突然現れたおじさんは、「がんばってな。ラムネのおまけだ」と、あたし達に一玉ずつ、スイカを渡すと満
足げに海の家の方へ去っていった。ラムネを買ったときに、風香ちゃんが故障の事を話していたらしい。
 あたしは、スイカをもって呆然と立っている、という状況に救われた。どちらからともなく笑いだした後で、
あたしは車の修理に取りかかり、程なくしてエンジンは息を吹き返した。
 車通りの少ない海岸沿いの道を、あたしは黙って車を走らせた。信号のない田舎道は、ゆるやかに左右にカー
ブを描いている。その道を、半世紀ほど前の車が辿っていく。
 ふいに、街灯がとぎれた。町と町の間に横たわるぽっかりと暗い闇。今の車と比べると、頼りなさすぎる明
るさのライトが道を照らす。クラッチを切ってギアを抜く。ブレーキをゆっくりと踏み込む。小さな坂を登り
切り、海を見下ろす路上で、あたしは車を止めた。
 話さなければいけないことがあった。それが、たとえ彼女を傷つけるものだったとしても。
 あたしは、ハンドルから手を放し、シートに座り直した。エンジンを切ると、風の音だけがあたりを包む。
「風香ちゃん、さ」
 助手席を見ると。風香ちゃんがすやすやと寝息を立てていた。膝に、もらったスイカを律儀に抱えて。長い
髪が顔にかかるのをそっと払ってやると、白い頬に、涙の跡が見えた。いつの間になかせてしまったんだろう
か。ハンドルの十二時の位置に両手をのせ、額をおしあてた。海風の音に紛れさせるようにして、少しだけた
め息を吐き、車を降りた。助手席側にまわり、そっとスイカを引きとり、後部座席においた。代わりに積みっ
ぱなしになっていたフライトジャケットを取り、音を立てないように、幌を起こす。
 夜空を失った車内は、気持ちの良い閉塞感につつまれていた。ドアを閉じるとわずかばかり海の音が遠のく。


100 名前:No.22 空冷エンジンの夏 5/5 ◇D7Aqr.apsM 投稿日:08/04/21 01:08:25 ID:ks3diZG2
あたしはそっとフライトジャケットを彼女の身体にかけてやった。ん、風香ちゃんはと身じろぎしながら、
フライトジャケットの中に顔を埋める。頬に涙の跡をつけたまま、それでも、少しだけ幸せそうな寝顔。
 
 彼女があたしのどこを気に入って、そんな気持ちになったのか。それはわからない。弟の時もそうだったけ
れど。身も蓋もない話をすれば、たぶんそれは何かの錯覚なのだろうと思う。ただ――問題は、人を好きにな
るなんていうのは、ほとんどその錯覚に原因があったりするのかもしれない、ということだ。
  ふと、ある考えが頭をよぎって携帯を取り出す。あたしは携帯電話の着信履歴を埋め尽くす番号を眺めて、
ため息をついた。メールを呼び出す。液晶画面の光が風香ちゃんの顔にあたらないように、少しかしげたまま
文字を入力していく。
 件名は後回しにして、文面の編集画面を開く。
『盆明けに一度帰る、って母さんに言っておいて。』
 改行して、少し考える。
『あたし彼女ができた』
 件名は、ごめん。とだけ。半分嘘で半分本当。結局の所は単なる意地悪。
 送信ボタンを押した。送信中の画面が表示される。あたしは完了も確認しないで携帯電話をたたみ、リアシー
トに放り投げた。
 エンジンをかける。彼女の実家がある町まで、あと五十キロ。
 近くになったら起こして、彼女と話をしよう。
 いますぐに、彼女の気持ちに、真っ正面からこたえる事はできないかもしれない。けれど、それでも、仲の
良い先輩として一緒にご飯を食べたり、寮の中で一緒に過ごしたりするくらいはできると思う。
 過ぎていく時間の中で、彼女はその錯覚に気づくのかもしれない。そうしたら、背中をそっと押して見送っ
てあげればいい。
 そのとき、もしかしたら、あたしは泣いたりするのだろうか。

 エンジンをスタートさせる。ギアをいれ、ゆっくりとクラッチをつなぎ、あたしは車を走らせはじめた。
 空冷エンジンのバサバサとした音。ほんのりと湾曲した大きなフロントウィンドウは、わずかにゆがんでいる。
その向こうで、夏の夜の星空は、どこまでも続いていた。
 

<空冷エンジンの夏 了>



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