【 黒い同僚、長いお別れ 】
◆SM.3wIRaLE




79 名前:No.19 黒い同僚、長いお別れ 1/4 ◇SM.3wIRaLE 投稿日:08/05/18 22:56:01 ID:RPXKEl4X
 僕がオフィスに到着した時、彼は既に自分のデスクに座り、仕事を始めていた。僕は彼に声をかける。
「やあ、今日も眠そうだね」
「我々は基本的には夜行性だからね」
 ねこくんは言った。上等なビロードのように染み一つない黒々とした毛皮も、朝はいつも少しくたびれて見えた。
「ぼくはスロースターターなんだ」彼はそう言って、大きく伸びをした。「今日もがんばろう」
「そうだね、がんばろう」
 僕は答え、タイムカードを押した。無感情に時刻が刻印されたカードが電子音と共に吐き出される。僕は自分のデスクに座り、パソ
コンを立ち上げた。

 彼が猫だということは誰も気にしていなかった。タッチタイプ一つとってみたって、何をどうやっているのかは判らないけれど、課
内の誰よりも速かったし、仕事の成績も抜群だった。服装のセンスもよく、誰に対しても優しかった。社内の人間は彼が猫であること
なんかこれっぽっちも問題にしていなかったし、彼自身もさほど気にはしていなかった。僕だって最初こそ驚きはしたけれど、彼のユ
ーモアの才能や面倒見の良さに触れるうち、そんな事どうだって良いのではないか、と思うようになっていた。

 その日の昼休み、僕たちは昼食を共にした。ツナサラダを食べる彼のしっぽはぴんと上を向き、体毛も本来のつややかさを取り戻し
ていた。
「聖書はあまり読まないんだけど、一つだけ好きな聖句があってね」
 ねこくんは口をもぐもぐさせながら、聖書の一節をそらで暗誦した。
「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬのだから」それから僕の食器に目を落として言った。「ところでその焼き魚
をくれるつもりは無いかな」
 僕は少しだけ考えて、彼に鯖の乗った皿を差し出した。
「求めよ、さらば与えられん」
「ありがとう」
 彼は満足そうにうなずいて、魚の骨を取り外す作業を開始する。我々のような指を持たない彼にとって、その作業はとても大変なこ
とだったけれど、ねこくんは器用に両手でフォークを使い、ひょいひょいと魚の本体から骨を撤去していった。
「ところで」僕は言った。
「うん?」ねこくんは熱心に魚の身をほぐしながら、顔を上げずに答えた。
「また恋愛ごとかい?」
 僕の言葉に、彼は心底驚いたようだった。フォークを持つ両手が一瞬だけ止まる。それから彼は言った。
「君はとても勘が鋭い」


80 名前:No.19 黒い同僚、長いお別れ 2/4 ◇SM.3wIRaLE 投稿日:08/05/18 22:57:05 ID:RPXKEl4X
「ある程度君の事を知ってる人間なら、その赤ん坊みたいな声を聞けばすぐにわかるさ」
 誰がどう聞いたって、それは猫の発情期の声だった。
「自分の声のことはよくわからないけれど」
 ねこくんは自分の咽喉に手を当て、ごろごろと音を鳴らし、ふんふんと唸った。そんな彼の姿はとても微笑ましかったけれど、僕は
彼が、主に男性社員の間で、陰で色々なことを言われていることを知っていた。
「友人としての忠告だけど、人間社会においてはあまり女の子をとっかえひっかえして遊ぶことは道徳的に良しとされてない」僕は続
けた。「この前は受付のあの女の子、その前は経理の竹原さん。その前が――ああ、名前が思い出せない。もしかしてその前にも居る
のかな?」
「いや、そういうのじゃないんだ」とねこくんは言った。それから何かを考え込むように、ぴんと張ったひげを撫でながらこぼした。
「去っていくのは彼女たちのほうなんだ。いつだってそうなんだ。ある程度仲が進展すると決まってみんなこう言う。『両親が猫アレ
ルギーなの』ってさ」
 ねこくんはそう言って赤ん坊の声のまま、ははは、と乾いた笑い声を上げる。彼の言葉を聞いて、僕は少しだけ落ち込んでしまう。
もしかして僕は訳知り顔で彼のことを傷つけてしまったのではないだろうか。そんな僕に、ねこくんは優しい瞳を向ける。
「次は、きっと大丈夫だと思うんだ。ぼくはぼくの居場所を見つける」さて、と彼は続けた。「付け合わせのサラダも貰えないだろう
か」
 僕は笑い、ねこくんも笑った。僕は喜んでサラダボウルを彼に提供した。

 ねこくんの意中の相手は課内の大沢さんという女性で、僕より二歳下の新入社員だった。彼女はお世辞にも仕事が出来るとは言いが
たかったけれど、何事に対しても真剣で誠実な女性だった。化粧気は少なく、髪の毛も染めていなかった。社内の男たちからは「地味
で目立たない子」の代表選手として認識されていたけれど、ねこくんだけは彼女の本当の美しさに気づいていたのだった。
 結論から言ってしまえば、ねこくんは大沢さんと親密な交際を始めることを成功させた。その間、結構な紆余曲折があったのだけれ
ど、この話は長くなってしまうからやめておこうと思う。話し出すと長くなる事柄だし、それはこの話においてあまり重要な位置を占
めていない。とにかく、ねこくんと大沢さんは恋人同士になり、その関係を育んでいった。二人の交際は僕の知っている限り、ねこく
んにとってもっとも長いものとなった。ねこくんはそのことをとても幸せに思っていたようで、昼休みにはあの赤ん坊の泣き声のよう
な声で、大沢さんの好ましい部分を語り続けていた。あるとき彼は言った。「ぼくはぼくの居るべきポイントを見つけたのかもしれな
い」と。僕はそのことについて諸手を挙げて祝福したかったけれど、何ともいえない落ち着きの悪さを感じていた。

 ねこくんが辞表を提出したのは、それからしばらく経ってのことだった。あまりにも唐突なことだったので、課内の誰もが驚いた。
辞表を受け取った上司ですら驚愕の色を隠せなかった。
「一身上の都合で申し訳ありませんが、退職させていただきたく思います」そう言った彼の声はもう乳飲み子の声ではなくなっていて、


81 名前:No.19 黒い同僚、長いお別れ 3/4 ◇SM.3wIRaLE 投稿日:08/05/18 22:57:44 ID:RPXKEl4X
僕は反射的に大沢さんのほうに視線を向けた。大沢さんは自分の机に座ったまま、小さくうなだれていた。彼女の口の形が、小さく「
ごめんなさい」と動いたような気がした。
 それからねこくんは退社までの間、何事もなかったかのように自分の仕事を整理し、業務の引継ぎを終えた。彼の机はよく整備され
たグラウンドみたいに綺麗に片付けられ、そこには体毛一本も残ることはなかった。彼が辞めた穴は想像以上に大きかったけれど、文
句を言っている暇なんて微塵もなかったし、彼はきちんと手続きを踏んで去っていったのだ。僕たちがけちをつける余地なんてどこに
もなかった。

 その後一週間ほどして、自宅に居た僕の携帯電話にメールが届いた。
《こんどのにちようび、おあいできないでしょうか》
 紛れもなく、ねこくんからのメールだった。猫が扱うようには出来ていない携帯電話の小さなキーを、彼は爪でちくちくと操作した
のだろう。僕は少しだけ微笑んで、返事を打つ。
《僕もちょうど君に会いたいと思っていたんだ》
 僕たちは何度かメールを交換し、待ち合わせの時間と場所を取り決めた。彼が辞めてしまってから、それほど時間は経っていなかっ
たけれど、僕は彼とのやりとりをひどく懐かしんでいたし、彼もそう感じていたように思う。ねこくんの丁寧なメールからは、僕の買
いかぶりでもなんでもなく、親愛の情が溢れていた。

 日曜日の午後七時に、会社近くの喫茶店で僕たちは待ち合わせていた。待ち合わせ時間の十五分前には到着したのだけれど、ねこく
んは既に店内のテーブルに両方のひじをつけて、両手であごを支えて座っていた。彼は僕に気づくと片手を挙げて、小さく微笑んだ。
「習慣っていうのは怖いね」と、ねこくんは言った。「会社を辞めたっていうのに、僕はまだスーツなんか着ている」自嘲気味に笑っ
て、彼はそう続けた。彼の前に置かれたホットココアは既に冷めてしまっているようで、表面に膜を張っていた。
「どうして」僕は恐る恐る彼に尋ねる。「どうして急に辞めてしまったんだい?」
 ねこくんは少しだけ考えるそぶりを見せ、スプーンでホットココアを混ぜ、表面の膜を崩した。でたらめなまだら模様がココアの表
面に描かれる。
「連絡も付かなくなってしまって、みんな心配してるんだ。もちろん、その、大沢さんも」
 僕がそこまで言ったとき、ねこくんの表情は大きく曇った。僕たちの間に、しばらくの沈黙が流れる。店内のBGM。場違いに明る
いジャズのスタンダードナンバーが流れていた。ココアの表面を見つめていたねこくんが顔を上げる。言葉をひとつひとつ区切るよう
にして、僕に語りかけた。
「ぼくは、愚かな、猫だった」
 ねこくんは言った。その声には後悔も自責の念も含まれておらず、ただ事実を率直に述べる音でしかなかった。ねこくんは言った。
「ぼくは愚かな猫だった。アルマーニのスーツを着て、デスクに座って仕事をして、人間の言葉を話した。そうすることで君たちと同


82 名前:No.19 黒い同僚、長いお別れ 4/4 ◇SM.3wIRaLE 投稿日:08/05/18 22:58:07 ID:RPXKEl4X
じような存在になれると思っていたんだ。でも、違った。大沢さんは言ったんだ。『ヒトとあなたたちとでは住む世界が違うみたいな
の。本当にごめんなさい』。ぼくはそこでやっと気づいた。猫はどこまで行き着いても猫だ、ってことに」
 彼はそう言って、疲れたように首を振った。太古の琥珀のような瞳に、哀しみの色が宿っていた。それは今後どうあっても拭き落と
すことの出来ない種類のものだ、僕はそう思った。
「もちろん、猫の世界にだって、ぼくの帰る場所は無い。だってそうだろう?人の言葉を覚えて、人の服を着て、そうやって暮らして
きた猫を他の猫がどう思う?『きざったらしいやつだ』そう思うに決まっている。だからぼくは――」
 彼の声はヴェネツィアの強固な城砦のように固く、重かった。僕はねこくんの話を黙って聞いていた。僕の安易な慰めを聞いて、ね
こくんの決断が変わるとは到底思えなかったし、それは彼にとってひどく失礼なことのような気がしていた。
「ぼくは旅に出るよ。旅に出て、ぼくの、ぼくのための居場所を探す。君という友人と離れてしまうのはとても辛いことだけど、ぼく
にとってそれはどうしても必要なことなんだ」
 ねこくんはスーツのポケットから財布を出して、千円札をテーブルの上に置いた。
「もし。もしもぼくが自分の居場所を見つけることが出来たら。ぼくは君に絵葉書を出すよ。だから、そう。これでこの話は終わりな
んだ」
 彼は立ち上がった。僕も立ち上がった。ねこくんは小さな肉球のならんだ温かい手を僕に差し出した。僕はそれを握る。彼はその小
さな両手で、僕自身を包み込むように僕の手を握り返した。そして彼は言った。
「それじゃあ、さようなら。たとえ短い時間でも、君に出会えてよかった」
「さようなら」
 彼は背中を向けて、店のドアをくぐり外へ出た。彼の背中は確信に溢れ、しっぽはぴんと天井を指していた。僕はドアが閉まるのを
見つめていた。ドアが完全に閉まってしまってから、僕はまだ手のひらに残っているねこくんの温かな肉球の感触を確かめる。彼がつ
いさっきまでここに居て、僕の右手を握り締めたことを確認する。僕はねこくんの凶暴な凶器のような『かえし』のついた性器を想像
する。『ヒトとあなたたちとでは住む世界が違うみたいなの』。物言わぬドアに、もう一度だけ言葉を投げかけた。
「さようなら、ねこくん」
 僕の声はそのまま霧散して、どこにもたどり着くことなんてなかった。







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