【 帰郷 】
◆D8MoDpzBREI




52 :No.15 帰郷 1/5 ◇D8MoDpzBRE:08/08/03 23:11:39 ID:VlkIpTss
 わずか一週間の夏休みですら、今の僕には長く感じられた。
 仕事人間であるという自覚はない。残業を減らすためならば、熱心に効率のよい働きぶりを追求する。周りからは、
仕事が出来るというよりも、あっさりとした仕事ぶりだと評されているようだ。それならそれで構わない。
 所帯を持った人たちと違い、配偶者はおろか特定の恋人さえいない僕にとって、仕事以外の時間は完全に自分だけ
のためのものだ。何をするわけでもない。唯一の趣味と呼べる読書の時間以外は、昨日の自分が何をしていたか思い
出すのにさえ苦労するほど、何もしていない。。
 着替え用の衣類数点と、読みかけの文庫本、携帯電話の充電器などを荷造りしてしまえば、帰省のための準備は
終わる。
 実家に帰るのは約半年ぶりになる。
 僕の職場があるこの街は、古くから漁業で栄えていた地方都市だ。もっとも、最近では漁獲高は振るわないという。
昔どれほど栄えていて、現在それがどれほど衰退したのかは分からない。ただ、漁業もコストがかさむようになったと
いう話だけはよく耳にする。仕事で漁業関係者と接触すれば、大抵異口同音に発せられる言葉がそれだ。つまり彼ら
全員が大変なのだろう。僕のように、目下満たされているわけではないけれども、失うものを抱え込んでいるわけでも
ない立場が、何だかんだ言って一番恵まれているのだ。
 車は高速道路に乗り、快調に飛ばしている。車での遠出は久しぶりだ。出張では多くの場合、公共の交通機関を使
うことにしている。別にこだわりがあっての選択ではない。出先でドライブなどとしゃれ込むような気力がないだけだ。
 快晴。夏空というものを目にしたのは、ひょっとしたら今年初めてかも知れない。白字で名古屋までの距離が示され
ている、緑色の看板とすれ違う。平日の昼間というせいもあってか、車の影はまばらだ。いつまでもこんな景色が続く
のかと思うと、うんざりする。
 それでも、ボーッと眺めていては気付かないくらいの速度で、少しずつ景色は変化している。海岸線は遠のき、標高
が上がる。周囲は山に囲まれて、徐々に森林に燻されたような空気が漂ってくるのだ。長らくこの地を離れて暮らして
いる僕にとって、やはりこの空気は特別であり、忘れがたい。

「早かったわね」
「出発が午前中だったからね。それに、まだ昼飯を食ってないんだ」
「あ、そう。じゃあ少し待ってなさい」
 実家に到着すると、玄関先で母に出迎えられた。そのまま居間に上がり込む。一人暮らしのアパートに比べ、流石
に実家の居間は広く作られている。
 ソファに寝そべっていたら、母が冷えた麦茶をグラスに入れて運んできた。「あり合わせのものでチャーハンくらいし
か作れないけど」と言いながら、グラスをテーブルの上に置く。

53 :No.15 帰郷 2/5 ◇D8MoDpzBRE:08/08/03 23:12:06 ID:VlkIpTss
 僕はそれを一気に飲み干した。間違いなくペットボトルの麦茶では出せない味がした。
「仕事は上手くいってるの?」台所から母の声。ネギか何かを刻む音も、微かに聞こえる。
「まあ、普通だね」
 おかしなもので、久しぶりに実家に帰ってきたにも関わらず、懐かしいなどといった感傷が湧いてくることはなかった。
確かにこの居間は、僕が小中高と過ごした居間である。テレビやソファは買い換えられてしまってはいたが、テーブル
や戸棚、その他小物に至るまで、当時のままの姿をしているものも多い。それでも僕がこの実家を懐かしむ、という
郷愁に襲われることはない。黙っていても冷えた麦茶やらチャーハンが出てくるという類の便利さを感じることはあっ
ても、だ。
 そうこうするうちに、母がチャーハンを運んでくる。ことさら特別美味しいわけでもなく、特にこの味が懐かしいという
わけでもない。しかし不思議なもので、この味はここ以外の場所では決して手に入らないものだ。僕だって何度が自
分でチャーハンを作ったことはある。何が違うのかは全く分からないのだが、それらがこのチャーハンの味になること
は一度もなかった。
「近々ね、あんたが通ってた中学校が取り壊されるんだって。この春、廃校になったのよ」
「それは聞いてなかったな」
 中学校時代、と聞いても取り立てて思い出されるようなことは少ない。喩えて言うならば、ちょうど目の前にある
チャーハンや麦茶のようだ、と思う。よく分からないが、イメージ的にはそうだ。コンビニ弁当やペットボトルのお茶
などではない。
「そうか、取り壊されるのか」
「もう見られるのも最後かも知れないわよ。記念に写真でも撮ってきたら?」
「でも、もう誰もいないんだろ? 懐かしい母校というよりかは心霊スポットのような感じになってそうだな」
「それもそうね」
 チャーハンを食べ終えると、僕はソファの上で横になって甲子園の中継を見た。真夏のグラウンドの上で必死に野
球をする高校生たち。全国に四千校以上ある高校の頂点を決める大会だ。この中から、果たして何人が野球で飯を
食っていけるだけの選手に育つのだろう。途方もない世界だ。
 チアリーディング、ブラスバンド。未だに『ガラスの十代』やら『タッチ』の主題歌が流れるのが面白い。曲を演奏して
いる彼らは、実際にこれらの原曲を知っているのだろうか。
 プロ野球の視聴率が落ちてきても、高校野球の視聴率は中々落ちないなんて話を聞いたことがある。何やら妙に
納得させられるものがあった。

 二階の、かつて僕の勉強部屋だった部屋は、現在では物置に変わっていた。学習机の姿もある。ふと、中学校の

54 :No.15 帰郷 3/5 ◇D8MoDpzBRE:08/08/03 23:12:39 ID:VlkIpTss
卒業アルバムに手を伸ばしてみた。
 ずいぶん長いこと顧みられていないそのアルバムは、文字通りすっかり埃を被ってしまっていた。それらを指でぬぐ
い取ったら、綿玉のようになった埃カスは、ウズラの卵くらいの大きさになった。アルバムはページをめくるたびにバリ
バリと音を立てる。
 見知った顔も見知らぬ顔もあった。僕が驚いたのは、そこに写っている誰もがひどく幼く見えたからだ。中学生だか
らまだまだ顔が幼いのは当たり前なのだけれど、それにしてもイメージと実際とのギャップがきつい。特に幼稚な面影
を残した自分の写真などは正視に堪えなかった。
 初恋、と言うわけではないが、隣のクラスに好きだった女の子がいた。日常的に会話をするほどの仲でもなかった。
いや、むしろ休み時間中にすれ違っても挨拶をしない程度の間柄だ。まるで赤の他人と言い換えることも出来る。大
人しくて色白でおかっぱ頭だったような気がする。果たして、隣のクラスの集合写真の片隅に写っていた。確かに色
白のおかっぱ頭だ。そして、想像していた以上に若い、というか幼い。今、僕がこの子のことを可愛いなどと言ったら、
完全にロリコン扱いされるであろう程度には幼い。
 昔の思い出といったらそんなもんだよなあ、と思いながらアルバムを仕舞う。思い出がつまったアルバム、というより
は過去をネタにした好奇心を満たすための道具、といった感じのアルバムだった。顔を合わせるような級友も、今と
なっては残念ながらいない。一人でもそんな友達が残っていれば、格好の話題になったであろうなと想像する。
 そうだ、学校に行ってみよう。
 昼間、母が言った言葉が思い返された。見られるのも最後になるかも知れない。取り壊されるという情報が耳に入っ
ていなければ、きっと一生見ることもなく終わったのだろう。逆説的だが、廃校になって取り壊されるという過程を経て、
記憶の最深部に沈殿したかの母校に光が当てられることになったのだ。今の内に行っておかなければならない。
 もう既に日は暮れかけていた。僕は、歩けば十分程度の距離だったかつての通学路を、かつてと同じように歩いて
行くことにした。ラジオ付きの懐中電灯を携えて。
 何しろ傾斜した土地で、上り坂にしても下り坂にしても、歩いているだけなのに足腰には応えるものがある。歳のせ
いなのか、地形のせいなのか。傾斜の底には市街地や市内を流れる川などを一望することが出来る。僕の通ってい
た中学校は市街地とはやや離れており、生徒数も少なかった。それ故に廃校になったのだろう。

 中学校の正門は固く閉ざされていた。当然のことながら、立ち入り禁止である。ここで引き返すのももったいない。
この学校の卒業生が中に入れないとはどういうことだ、とやや屈折した道理を振りかざして、僕はこの学校に侵入す
ることにした。幸い辺りは薄暗く人影もない。
 校舎内に至る扉は、いずれもことごとく施錠されていた。入るなと言うことだ。当たり前である。それでもどこかから
入れはしないかと、僕は校舎の周りをぐるぐる回ることにした。

55 :No.15 帰郷 4/5 ◇D8MoDpzBRE:08/08/03 23:13:07 ID:VlkIpTss
 職員室の裏を通って、プールの着替え小屋、非常階段などの脇を通り校庭に出る。校舎は校庭に対して開放的な
構造になっており、そもそもどこからか忍び込んだりするまでもなく、中に入ることが出来た。しかし、廊下や教室は
完全な闇に覆われている。夕日は完全に沈んでしまった。懐中電灯のスイッチを入れた。
 建物全体の構造としては、一階が一年生用、二階が二年生用、三階が三年生用となっていた。二階建ての別棟に
音楽室やら美術室があったように記憶している。図書室はどこだっただろう。もっとも、蔵書などは全て引き上げられ
てしまって残ってなどいるまいが。
 教室の中には入れなかった。全ての扉が施錠されていた。窓ガラスを破れば侵入は出来ただろうが、大の大人は
母校で器物損壊などしない。学校の窓ガラスを破るなんて、いわゆる不良やチンピラがやるものだ。
 取り立てて興味や郷愁を誘うものにはお目にかかれなかった。むしろ、教室に残されていた勉強机やロッカーなど
の備品がひどく簡素で粗末であったことに意外な驚きを感じた。昔はあんなものを使っていたのだ。
 結局さして収穫も得られないまま、僕の学校探索は終わろうとしていた。
 校舎を出て校庭に下りた。ざらざらした砂と、その下の硬い地面。運動をするにはとても向いているとは思えない踏
み心地だ。膝や腰にも悪そうである。
 体育館裏に回った。備品倉庫があり、堆肥置き場などもある。周囲にはうっそうと木が生い茂っており、学校の中で
も一番じめじめとした雰囲気の場所だ。
 僕はそこで奇妙な落書きを発見した。普通に歩いていたならば、必ずや見落としていただろう。たまたま懐中電灯の
光が射した場所に、奇妙な模様が見えたのだ。
 そこには、様々な名前と思しき文字列が書き記されていた。それらの多くが愛称であったりハートマーク付きであっ
たから、恐らくは自分の名前を書き残していったものではなさそうだ。マー君、マリエっち、ヒデ……。中には先輩、と
だけ書かれたものもあった。これでは誰なのか分かるはずもない。きっと、好きな人の名前を書いていったのだろう。
中学生がやりそうなことだ。残念ながら、僕のことをさしていると思われるような書き込みも見あたらなかった。仕方
あるまい。
 ふと、先程の卒業アルバムのことを思い出した。結局三年間、ほとんど話すこともなく終わったあの子のことを。色
白でおかっぱ頭で、少し幼かったあの子。名前は何だっけ……?
 ――菅原絵美ちゃん。
 そうだ、確かにそうだ。菅原絵美。ひどく懐かしいその名前を、声には出さずに復唱する。
 足下には、雨ざらしになって朽ちかけた鉛筆がおあつらえ向きに転がっていた。ここに名前を書いて行けと言うこと
なのだろうか。今さら書いて、何になると言うんだ。しかし、僕はそれを拾い上げて壁に試し書きをしてみた。ザラザラ
という感触を残して、微かに壁が汚れる。よし、どうにか書けそうだ。
 エミ、とだけ鉛筆を走らせる。よく分からないけれど、心臓が高鳴っているのを感じる。人に見られているわけでも

56 :No.15 帰郷 5/5 ◇D8MoDpzBRE:08/08/03 23:13:37 ID:VlkIpTss
ない。後ろめたさのような気恥ずかしさとでもいうべきか、そんな感覚が僕を浮き足立たせた。何とか書ききって、僕
は逃げるようにその場を後にした。

 小学校の頃は宇宙飛行士になりたかった。中学校の頃は、将来の夢の欄に弁護士と書いた。女の子とは、大学生
になるまで縁がなかった。あの頃を、僕は何を思って過ごしていたのだろう。あるのは懐かしさではない。では、何か。
喪失感、という言葉が思い浮かんで、僕は慌てて首を振った。
 あの色白でおかっぱ頭の子は、今頃何をしているのだろう。どこかで誰かと結婚して、幸せな家庭を築き上げてい
るかも知れない。昔とは見違えるくらいに大人びているかも知れない。
 きっと幸せであって欲しいと思う。別に結婚なんてしていなくてもいい。三年間好きだった人が、どこかで不幸になっ
ているなんて、想像したくもないだけだ。
 帰り道、月が突然雲に隠された。照明のない田舎道は、一気に完全な闇に覆われる。月明かりがあるというだけで
もかなり違うのだ。そしてしばらくすると、今度はぽつ、ぽつと雨が降り出した。それは瞬く間にザアザアと地面を打つ
音に変わり、みるみる僕の頭からつま先までを満遍なく水浸しにしていく。
 走れ!
 何かに弾かれるようにして、僕は走り出した。暗闇の中を。雨粒が顔を叩き、飛沫が飛ぶ。上り坂はどこまでも続い
ているかのようだった。久しぶりの全身を使った運動に息は弾み、汗と雨とが混ざり合う。
 それでも僕の歩調は乱れない。どこまでも、上へ上へ――





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