【 ある夏の日の間奏曲 】
◆zmMEjNb3Ok




23 :No.06 ある夏の日の間奏曲 1/5  ◇zmMEjNb3Ok:08/08/17 18:15:12 ID:SmuI03ec
 放課後の教室で浩平とポーカーをして遊ぶ。賭ける金は百円二百円の微々たるものだが、それなりに熱が入る。
「ちょっと便所行ってくるわ」
 何度目かの勝負がついて、浩平が席を立った。俺は窓に肘をかけて外を眺める。夕暮れ時の雲は立体的だ。片面は夕日を受けて光り、片
面は影になる。背景の空は光源に近づくにつれて、オレンジ色が濃さを増していく。夕日を真上に見る、というのは絶対に不可能なことだ
けど、味気ない人生、一度くらいそんな奇妙な情景に出会ってみたいものだ。天頂が赤く、端に近づくにつれて青くなる、逆立ちした空。
 そんな空想をしながらぼんやりしていた俺の耳に、張りのある金属音が届いた。バットがボールを芯で捉えた音だ。ああ、この音は好き
だ。バットがボールを打って、野球部の連中が騒ぎ出すまでのつかの間の空隙、金属音の余韻が震えながらどこかへ溶けていくときに感じ
る一瞬の静寂。なんだろうな、この感覚は。除夜の鐘を聞いたとき? いいや、全然ちがう。好きなデザートの最後の一かけらを口にした
とき? 少し近づいた気がする。好きな人に、ふられたとき。ああ、これが一番近いかな。何か淡いものが消え入る瞬間、ついえる瞬間、
そんな瞬間に遭遇したときの、苦い淋しさや切なさに、この音は似ている。
 俺は思わず苦笑した。野球部の連中も、自分たちの練習が、こんな大げさな空想のきっかけになってるなんて思いもしないだろうと思っ
たら、つい可笑しくなったのだ。いや、似合わない感傷に浸っている自分自身を、滑稽に感じたのかもしれない。
「くだらね」と呟いて、俺は噛んでいたガムを窓の外に吐いた。三階の窓から飛び出したガムは、細かく揺れながら花壇に落ちた。
「おう、じゃ続きやろうぜ」
 浩平が戻ってきた。
「そういやお前、二年のときまで野球部だったよな。なんで辞めたの?」
 俺が聞くと、浩平は自嘲気味に笑って「あー、レギュラーになれんかったからな。三年が引退してやっと俺にもお鉢がまわると思ったら
一年にポジションもってかれてさ。アホらしくなって辞めた。てか、一応痛い思い出なんだから、そんなん聞くなよ」と言った。
「はは。わりいな」
「それより続き」
「いや、今日はもうそろそろ帰るわ」
 俺は浩平の返事も聞かずに机のトランプを片付ける。浩平は「つまんねーな」と言って、鞄を取りに自分の席に戻った。

「ただいま、っと」
 玄関の引き戸を開くやいなや、廊下を駆ける音がした。健太だ。
「兄ちゃんおせーよ! 腹減ったよ! じいちゃんも待ってんだから、早く飯作れよ!」
「あれ? 今日は母さんが作るんじゃなかったっけ?」
「兄ちゃんだよ! 母さん今日夜勤だろ? わかってるくせに、しらばっくれんなよバカ!」
 どうやら知らんぷりは通用しないらしい。それにしても、わが弟ながら口の悪いガキだな。胸の中でかこちながら、靴を脱ぐ。ちょっと
ムカついたので、あがりぎわに健太の頭を軽く小突いてやったら、けつを蹴り返された。

24 :No.06 ある夏の日の間奏曲 2/5  ◇zmMEjNb3Ok:08/08/17 18:15:52 ID:SmuI03ec
 今日の晩飯は肉じゃが。俺の得意料理だ。といっても適当に切ったジャガイモ、玉ねぎ、人参、牛肉を、市販のめんつゆで煮るだけの手
抜きだが。けれど下手に凝ったものを作って、かえってとんでもない味になるよりはずっといい。少なくとも健太もじいちゃんも、文句を
つけることはない。あとは漬物を切って、母さんが買い置きしてた唐揚げを温めれば、豪華な夕げの出来上がりだ。
 俺は健太を食卓につかせると、食事をのせたお盆をもって、じいちゃんの部屋にむかった。
「ごめんじいちゃん、遅くなった。晩飯もって来たよ」
 足で障子を開けて部屋に入る。布団に横になったじいちゃんは、文庫本を読んでいるところだった。
「ああ、ありがとう。もうそんな時間か」じいちゃんは本を脇に置いて言った。志賀直哉の小説だった。
 俺はじいちゃんの背中を手で支えて、体を起すのを手伝った。じいちゃんは四日前に、肺炎で入院していたのを退院したばかりだった。
まだしばらくは安静にしないといけないらしい。畳に腰を下ろした俺は、一緒に持ってきた調理バサミで、肉じゃがとから揚げを刻む。
「ああ、もうそのぐらいでいいよ」じいちゃんが不満気に言った。
「駄目だよ。飲み込む力が弱ってるから、食事は細かく切ったものにしてくださいって医者に言われたんだろ」
 俺が言い返すと、じいちゃんはやりきれない目をして、口をもごもごと動かした。
 じいちゃんも歳をとって、あちこちが弱くなったみたいだ。もともと体が丈夫な方ではなかったが、最近はものを食うのが不自由になっ
てきたらしかった。肺炎になったのも、飯が気道を通って肺にいったため、ということだ。そうなるのを防ぐために医者の指示で、すんな
り飲み込めるよう、食事は細かく刻むことになった。じいちゃんはそれを嫌がっている。見た目がぐちゃぐちゃになるので、不味そうに見
えるからだ。確かに器の中の肉じゃがは残飯みたいだし、小さく裂いた唐揚げは、猫かなにかの餌のようだ。
 箸とスプーンを使い分けて、じいちゃんは飯を食べる。俺はそれをじっと見守る。妙な様子が見て取れたら、すぐに病院に連れていかな
いといけない。不味そうな見てくれにも関らず、じいちゃんは黙々と手と口を動かす。作った者としては、一応評価が気になるところだ。
「うん、おいしいね。雄介も、料理の腕をあげたな」
 俺の気持ちを察したかのように、じいちゃんが言った。俺は曖昧に笑い返した。そんな風にほめられると、もう少し真面目に作ればよか
ったな、もっと練習しようかなと、むず痒い気持ちになる。
「ごちそうさま」と行儀よく手をあわせて、じいちゃんは箸を置いた。健太の傍若無人さとは大違いだ。俺はじいちゃんからお盆を受け取
って、立ち上がりながら、「じゃまた後で」と言った。体を拭いてやらないといけない。じいちゃんはうんと頷くと、体を横たえる。部屋
から出て行くとき、じいちゃんは俺を呼び止めて「すまんな」と言った。何が? と聞き返したら、じいちゃんは気まずそうな顔をして、
また口をもごもごと動かした。
 食卓にもう健太はいなかった。見ると肉じゃがとから揚げの器にはラップがかけられ、使い終わった食器は洗い流されている。ラップは
ともかく、健太が自分の食器を洗ったのは初めてのことだ。俺はなんとなく嬉しくなった。ご飯を茶碗によそって、ラップを開ける。肉じ
ゃがを口に入れると、思っていたより甘かった。つゆをもう少し薄めたほうがよかったようだ。
 三年前に父さんが病気で死んだ。俺は中三、健太は小三だった。健太を生んで以来専業主婦だった母さんは、また看護師の仕事をはじめ
ることになった。かなりのハードスケジュールで、週に二日は夜勤があり、また半夜勤といって、かなり遅くに帰ってくる日もある。それ

25 :No.06 ある夏の日の間奏曲 3/5  ◇zmMEjNb3Ok:08/08/17 18:16:32 ID:SmuI03ec
で母さんがいない日は、俺が食事を作るようになった。掃除や洗濯も手伝うようになった。はじめは母さん一人が頑張っていたが、きつい
看護師の仕事に加えて家事までこなすのは相当に大変らしく、みるみる元気を失くしていった。それで見かねて、俺が手伝うようになった
のだ。
 晩飯を食い終わり、後片付けを終えると、俺はキッチンの椅子に腰掛けて一息ついた。テーブルに肘をついてぼうっとしていたら、学校
で聞いたあの金属音が、ふと思い出された。帰り際に見た野球部の連中は、ユニフォームをどろどろに汚していた。俺も浩平も無言のまま
連中の様子を見つめていた。夏の大会が近いこの時期、練習にも特に熱が入っているようだった。
 浩平には話していないが、父さんが死ぬまでは俺も部活をやっていた。野球じゃなくて、サッカーだったが。人に話さないのは、「どう
して高校じゃやらないの」と聞かれるのが嫌だからだ。別に家庭の事情を隠したいわけじゃないが、なんとなく話すのがはばかられた。返
ってくる言葉が予想できるからだ。俺の行為は、その言葉に相応しくないような気がしている。
 部活をやっていたとき、俺のポジションはゴールーキーパーだった。チームの一番後ろに構えて、大声を出して指示を飛ばす。ディフェ
ンダーがうまく相手の攻撃をカットしたときは、もちろんよくやったという気になるが、同時に少し残念にもなる。自分の見せ場が潰され
ることにもなるからだ。一人だけ違うユニフォームが着られるという理由で選んだポジションだったが、俺の性にもあっていたようだ。攻
めることよりも、守ることの方が俺には向いている。センスもあった、と思う。横っ飛びにシュートをキャッチしたときの、手のひらにず
どんとくる感触が、たまらなく心地よかった。グラウンドに伏した俺は、チームメイトの称賛を味わうために、わざとゆっくりと立ち上が
る。悔しそうな顔をした相手を一瞥すると、思い切りボールを蹴り上げる。一連の動作の間、俺は無表情のままでいるが、内心は高笑いを
したい気持ちで一杯なのだ。要するに、俺はそんな人間だと言うことだ。
 テーブルに置いていた携帯電話が震えた。手にとって見ると、母さんからのメールだった。『ご飯はもう食べた? から揚げはおいしか
った?』とある。母さんはこうして仕事の合間によくメールをよこす。『食べたよ。から揚げもおいしかった』と返すと、すぐに『よかっ
た』と来た。笑顔の顔文字入りだ。若いなと思うが、母さんの場合、ときどき空元気で若く装おうとする傾向があるから、気をつけなくち
ゃならない。まあ、メール程度はそう気を張る必要もないだろうが。
 じいちゃんの体を拭き終わり、洗濯物を洗濯機に放り込むと、家事もひと段落ついた。時間は九時を回っていた。リビングに行くと、健
太がテレビゲームに夢中になっていた。
「けーんた君」
 俺は健太を羽交い絞めにした。
「痛い痛い! 放せよ!」
「おめえ、ゲームばっかしてねーでちっとは家の事も手伝えよ」
「わかった、わかった! 今度から手伝うよ、だから放して!」
 健太は身をもがきながら叫ぶ。ほんとだな、と俺が念を押すと、健太はヘッドバンギングみたいに首を何度も縦に振った。それで放して
やったら、とたんに俺を蹴ろうとしたので、脚を掴んで逆さ吊りにしてやった。
「てめえ、兄ちゃんに勝てると思ったのかよ」

26 :No.06 ある夏の日の間奏曲 4/5  ◇zmMEjNb3Ok:08/08/17 18:17:09 ID:SmuI03ec
「ごめんごめん! もうしない、許して!」
 なにかと叫んでばかりの奴だな、と思った。何度か左右に揺すって、下ろしてやったら、さすがに歯向かう気力は失せたようだ。
 本音を言えば、別に健太に家事を手伝わせようなんて思っていない。俺も父さんが死ぬまでは家事なんてまったくやらなかった。ただ健
太が食器を片付けてくれたのが嬉しかったので、ちょっとじゃれあおうと思ったまでだ。
 俺はソファに腰を下ろした。健太はゲームを切ってチャンネルを変える。格闘技が映った。俺が「お」と声をあげると、健太はすぐにチ
ャンネルを切り替えた。俺は苦笑した。
「健太、お前よわっちいなあ。お前もなんか格闘技やったら? 空手とか柔道とか」
 俺が冷やかすと、健太は俺を睨みつけて「俺は弱くなんかねーよ、バカ」と言った。本当に、口の悪いガキだ。
「大体、そんなものやってる時間なんかないじゃん」健太は少し声を低くして言う。
「なんで?」
「家事手伝わないといけないだろ?」
 俺は呆気にとられた。そんな殊勝な言葉が健太の口から聞けようとは思いもよらなかった。いや、そういえば、俺が手伝えと言ったばか
りだったか。そう思い直すと、俺は「いやお前、さっきのは冗談だよ」と言った。
「そんなのはわかってるよ。俺が自分で手伝わないといけないと思ったんだよ。じいちゃんも具合が悪いし、これからもっと大変になるか
もしれないだろ? そろそろ俺も家の手伝いしなきゃなって、思ってたんだよ」
 健太は伏し目がちに言った。どことなく、恥ずかしそうな風でもあった。俺は胸の奥がじんとあつくなった。しかし正直に褒めてやるの
はなんとなく癪だったので、「お前、熱でもあるの?」とからかってやった。健太は「うるせーよ」と言った。
「でもさ、お前、中学いったら部活とかやりたくないの?」
 俺が尋ねたら、健太は俯いて口をつぐむ。ああ、何かやりたいものがあるんだなと俺は直感した。おそらく野球だろう。健太は父さんか
ら買ってもらったグローブを、もう小さくなっているはずなのに、今も部屋の棚に飾っている。父さんも草野球チームに入っていた。
「やりたきゃ、やっていいよ」
 その言葉に、引っ張られるように健太は顔を上げた。不思議そうな目で俺を見上げる。
「お前、野球部はいりたいんじゃないの? そんなら入っていいよ。遠慮すんな」
「でも……」
「いや、ほんといいって。俺も中学までは部活やってたんだから。家のことも心配すんな。兄ちゃん学校でたら働くから。そしたら母さん
も楽になるだろ? 家のことやる余裕もでるだろうし、俺もできる限りはやるからよ。お前もガキのときくらい、やりたいことやっとけ」
「ガキじゃねーよ」
 小さな声で、あどけない強がりをみせて、健太はまた俯いた。健太も健太なりに考えていることがあるのだろう。俺もこれ以上は何も言
うつもりはなかった。いずれ母さんや、じいちゃんも交えて、話をするときがくるだろう。
「なあ、お前カラーボール持ってるよな。ちょっとキャッチボールでもしようや。風呂はいる前に一汗かいとこう」

27 :No.06 ある夏の日の間奏曲 5/5  ◇zmMEjNb3Ok:08/08/17 18:17:55 ID:SmuI03ec
 唐突な提案に、健太はきょとんとしている。ほら、早く取って来いとせっついたら、案外素直に取りにいった。
 ぞうりを履いて裏庭に出た。茂みから虫の鳴く声が響いている。裏庭はじいちゃんの部屋に面している。カーテンは閉められているが、
まだ明りは点いていた。本を読んでいるのだろう。軒下の電灯だけでは少々暗いので、都合がよかった。
「よしこい」俺はしゃがんでキャッチャーの姿勢をとった。健太の投げたボールは、まっすぐに俺の手元に飛んできた。ボールはばちんと
手を弾いて地面に転がる。キーパーの要領とは違うらしい。拾ったボールを投げ返す。健太は狙いを定めるように、じっと俺の手を見つめ
ている。もしかしたら、健太はピッチャーをやりたいのかもしれない。俺と違って荒っぽいところがあるあいつには、なるほど向いている
のかもしれないと思った。
 じいちゃんの部屋のカーテンが開いた。じいちゃんは引き戸を開け「キャッチボールか」と言った。
「ごめん、うるさかった? つか、じいちゃん寝てないと駄目じゃん」
「ああ、いい、いい。少しくらい、いい」そう言ってじいちゃんは、外に足を垂らすようにして腰を下ろした。
 俺と健太は、じいちゃんに見守られながら、キャッチボール、というより投球練習をやった。なれてくるとボールを取りこぼすことも少
なくなった。ただ手のひらが痺れてきた。小学生の投げるカラーボールといえども、何度も素手で受けるのはそこそこしんどいものがあっ
た。父さんのグローブがどこかにあったはずだが、探すのも手間なので、我慢することにした。
「健太はいい球を放るなあ」感心するようにじいちゃんが言った。健太はうんと答えたきりだ。
 夜を背にした健太ははつらつとして見える。やっぱり野球をやらせてやりたいと思った。母さんとじいちゃんもきっとそう思うだろう。
 こうして体を動かしていると、部活をやっていたときの、練習や試合のときの光景が、ひとりでに記憶の底から浮かび上がってくる。父
さんが生きていれば、きっと高校に入っても続けていただろう。でも父さんが死んで、熱中していたサッカーを諦めたとき、実はそれほど
ためらいはしなかった。何かを諦めて、「仕方ない」と自分に言い聞かせる事は、ドラマや漫画よりもずっと簡単なことだったのだ。
 俺はふと気がついた。細長く余韻をひきながら消えていくあの金属音の感覚は、好きな人にふられたときというよりも、俺がサッカーを
やめたときの、あのじんわりと薄い膜が体に張り付くような感覚に似ている。目の前の光景は遮られていないが、もう直接触れることはで
きない。そんな感覚だ。
 こんなふうに感傷的になるところからすると、俺の中にもまだ、小さなうずみ火のようなものが残っているのかもしれない。まあ、ある
ものを無理に吹き消すことはない。ほうっておいても、いずれ尽きてしまうだろう。
「あー、手がいてえや。じゃ、そろそろあがるか」
 ボールをとると俺は立ち上がる。健太は物足りなげな顔をしたが、俺が「また今度な」と言うと、うんと頷いた。じいちゃんも、窓枠に
手をかけて立ち上がった。少しよろめいたので、俺は一瞬ひやりとする。「じゃあおやすみ」と言って、じいちゃんは戸を閉めた。裏口に
戻る途中、俺は健太の首に腕を回し「たまには兄ちゃんと風呂に入るか?」と言った。健太はしかめ面を浮かべて「嫌だよ」と答えた。
「かわいくねーガキだな」
「ガキじゃねーよ」
<了>



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