【 誘い 】
◆wWwx.1Fjt6




28 :No.09 誘い 1/4 ◇wWwx.1Fjt6:08/08/25 15:12:48 ID:NrFDgNBL
 しばらく来ないでいる間に桜川の街並もずいぶん変わったものだ、と、改札を通って井上は思った。駅舎の前
に立ち並んでいた個人商店も駅脇のだだっ広い駐車場も、全てどこかに消えて今はビルになっている。日は暮れ
かかり、ネオンのついている看板とそうでないものが混在して、余計に井上の土地感を狂わせていた。改札を出
てすぐ右にある交番だけが以前のままで、それが井上に安堵の表情を浮かばせた。

 定期的に同窓会が行われていることを井上に知らせたのは、少し前に偶然旅行先で再会した旧友、植田だった。
曰く、井上は実家ごと転居を繰り返したので行方が掴めなくなった、知らせられないでいて申し訳ない、同窓会
は駅前の居酒屋でやるのが常で次は大社の祭りの前夜、徐々に参加者が減って寂しいので是非とも来い、とのこ
と。そうか懐かしい、きっと行くよ、と言いながらも井上が植田の電話番号を聞かずにいたのは、ただうっかり
したためではないだろう。植田も察したのか、中途で興奮の程度を下げて、またな、元気で、とかなんとか、通
り一遍の挨拶をして別れていった。
 しかし突然、まさに祭り前日になって、遅い朝の食卓越しに流していたテレビ放送が、井上の気を変えた。そ
れはあちらこちらの小学校を回って子供達にダンスをさせるという五分ほどの子供番組で、三歳の息子が毎朝楽
しみにしているものだ。その日そこに映されたのは、十数年前と変わらぬ桜川の山の稜線と、一目でそれとわか
る井上の母校だった。そこの校庭で踊っているうちの一人の少女に、井上は目をとめた。長いまつげに縁どられ
たくりくりとした目、柔らかな顎の線、輪郭のくっきりしたやや厚めの唇、波打つ豊かで艶やかな黒髪。彼女だ。
あれは、吉田京子だ。
 井上は妻にワイシャツと下着を出してくるように言い、あら、今日からお盆休みでなかったの、またお仕事入
ったの、と咎め気味に返されるのを、風呂場に向かう背中で聞き流した。シャワーを目いっぱい出して頭からか
ぶる。少女が井上の知る京子であるはずはなかった。京子は井上の同窓生で、今年二十八になる。つまり少女は
京子に似ているだけの別人だ。それは井上も承知していたが、まるで彼女も自分も幼少時に返ったかのような錯
覚を、あの瞬間、覚えたのだ。
 出会ったばかりの頃の京子は、快活な少女だった。石鹸の香りを漂わせてひらひらと蝶が舞うように戯れなが
ら、けらけらとよく笑った。それがまったく口をきかなく、また笑わなくもなったのは、彼女が美しすぎたせい

29 :No.09 誘い 2/4 ◇wWwx.1Fjt6:08/08/25 15:13:16 ID:NrFDgNBL
だ、と井上は思っていた。男子らの興味本位のちょっとしたからかいが、女子らを巻き込み、静かだが深刻な波
紋の環を広げていった。守りを固めることを余儀なくされた京子は、いつしか周囲で最も疎まれる存在になり、
中学の卒業式を終えてすぐ、故郷を去った。ほどなくして井上の家も桜川を離れ、以来彼がこの地に戻ってきた
ことはなかった。
 あの少女は京子の娘に違いない、と井上は確信していた。京子が桜川に戻っている、そう考えると、とても今
日の息子との、海を見せてやる、という約束を果たす気にはなれなかった。

 地元だった駅の周囲ぐらいすぐにわかるだろう、という目論見の外れた井上は交番に寄り、駅前に居酒屋はあ
るか、と尋ねた。書類を持て余し気味にしていた若い警官はその曖昧な質問に困った笑みを浮かべ、それでも、
チェーン店の名前と場所をいくつか挙げた。懐かしい訛りに笑みと礼を返して、知らない街を振り返る。
 植田が頓狂な声をあげて井上に駆け寄ったのは、若い警官の挙げたうちの三つ目の居酒屋だった。来ないかと
思ったぞ、さあ駆け付け三杯だ、と井上の背中を叩きながら、席をつくるよう仲間に合図する。もう出来上がっ
ているのか、いつから呑んでいるんだ、と聞くと、うん、子連れも増えてきたから早くきて早く帰るのさ、と答
える。見れば座敷の奥で井上の息子と同じようなのが数人、寝かされた赤ん坊の頬をつついて遊んでいた。可愛
いでしょ、あのお下げはうちの子よ、と背中にかかる声の主を探して振り返ると、かつて快活だった頃の京子と
は仲のよかった千恵が、赤い顔をしてにやにやと笑っていた。うん、とか、まあ、とか曖昧に返事をしながら井
上は向かいに腰を下した。つれないわね、変わってないわ、という言葉と共に漏らした千恵の笑い声はあまりに
下品で、京子のことがなければ井上は即座に席を変えたに違いない。
 そうだ京子、と居並ぶ十人ほどの面々をゆっくり見たが、そこに京子は来ていなかった。
「これで全員かい」
「そうね、だいたいこのメンバーよ」
「あとの連中は」
「連絡つかないのもいるし、呼んだって来ないのもいるし」
「皆、桜川を出ているのかな」

30 :No.09 誘い 3/4 ◇wWwx.1Fjt6:08/08/25 15:13:37 ID:NrFDgNBL
「出ていったり帰ってきたりね。こっちにいて今日来てないのは、そうね、斉藤でしょ、恵美でしょ、あと京子
と、それから」
「皆、子持ちかな。結婚は」
 思考を遮られた千恵は、酔った目をゆっくり井上に向けた。
「それぞれよ。もう微妙な年になっちゃったもんねえ。独身半数、既婚者半数、何とも言えないの一人」
「何とも言えないって」
「京子。今シングルマザーやってるって話だよ。いろいろあったらしいよ。あの性格だしねえ。いつも何考えて
るかわかんなくてさ」
 京子の生活を狂わせた一人であるはずの千恵は、事もなげに言ってのけた。

 ひらけてきたようでいて、桜川の街はまだ田舎だった。男同士の二次会を解散して店を出るとネオンはかなり
が消えていて、井上は寝場所を確保していないことを思い出した。うちに泊まれよ、と植田が声をかけてきたが、
手を振って断った。もう既に自分はよそ者になっている、という感覚が、同窓会の間中ずっと井上につきまとっ
て離れなかった。ビジネスホテルを探そうと交番に向かうと、居酒屋を尋ねたときの若い警官がまだ坐っていた。
先刻と同じく書類を広げている。労いの言葉をかける井上に気を許したのか、それとも照れたのか、実は明日の
祭りが気になって専念できずにいると明かしてきた。昼から囃子をやるから見に来てくれ、とも言う。囃子と聞
いて井上は先程まで抱いていたぼんやりとした疎外感の消えてゆく気がした。懐かしい囃子が今にも聞こえてく
るようだった。付き合いの苦手な彼にしては珍しく快諾し、交番を後にした。

 翌日は快晴だった。この日の祭りは、大社内だけでなく町をあげて行われる大きなもので、桜川全体が祭り一
色に染まっていた。町内会毎に揃えられた衣装をまとう人の群々は山車と囃子の支度に忙しく、鼓笛で参加する
消防団と舞いを披露する婦人会は最後の調整に余念がない。それらの喧騒とは対照的に、浴衣を着た人々がのん
びりと屋台を冷やかしながら大社に向かう。
 茶色地に本町と白抜きで描かれた法被に玉絞りという格好の青年は、寝不足を感じさせない軽快な動きで、囃

31 :No.09 誘い 4/4 ◇wWwx.1Fjt6:08/08/25 15:13:57 ID:NrFDgNBL
子を奏でるべく山車に上った。見晴らしのよい山車の上から、今日の祭りの賑やかさを確かめる。と、少し離れ
て、祭りにはおよそ似つかわしくない、ワイシャツ姿の男を認めた。来てくれている、と警官の青年が思ったそ
のワイシャツの持ち主は井上だ。青年は手を振りかけてからそれほど親しい間柄でもないことを思い出し、やや
赤面して井上がこちらに気付くのを待った。しかし井上の視線は、違う一点に注がれていた。
 井上の視線の先には、あの少女がいた。昨夜楽しみにしていた囃子が始まっても、彼の耳には届かなかった。
井上の中には、ただ少女の存在だけがあった。黄色い浴衣に赤い帯を絞めた立ち姿はテレビ越しに見た時よりも
大人びて見え、反面、飴細工が出来上がってゆくのを一心に見つめる様子はまだ幼かった。飴細工屋は一通り作
り終わると、さあ買ってゆくのかどうなのかと問い詰めんばかりにぐるりを見回した。少女は、冷やかしの客が
去りはじめてようやく、母がいないと気がついた。井上は一瞬躊躇し、それから、一度だけと決めて、かすれた
声を絞り出した。
「吉田さん」
 声は届くかもしれないし届かないかもしれない。苗字は変わっているかもしれないし変わっていないかもしれ
ない。苗字に振り返るには幼すぎるかもしれないしそれ程幼くないかもしれない。そもそも、この少女が京子の
娘だという確たる証拠はない。ただ、少女が京子の生き写しというだけだ。
 果たして、少女は振り返った。

 吹き慣れているはずの笛の拍子が狂った。いつもの拍子をとるには、鼓動が高鳴りすぎていた。視界の端に映
った、ワイシャツ姿に手を引かれる浴衣の少女。二人はあまりにも不釣り合いで、本職の直感が警鐘を鳴らして
いた。いやしかし、とても感じの良い人だったではないか。笛に集中するために目を瞑った。囃子の笛がひとき
わ高く、大社の木々にこだました。

おわり



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