【 ニンジンの天ぷら 】
◆71Qb1wQeiQ




18 :No.05 ニンジンの天ぷら 1/8 ◇71Qb1wQeiQ:08/09/01 11:53:26 ID:sWnHCKzj
   さかのぼること一週間前、何の前触れもなく月が割れた。
 さながら開きにされたアジのような、見事なまでの縦真っ二つに。
 分かれてしまった文字通りの半月は、日を追うごとに少しずつ離れていっており、だというのに潮の満ち引きや重力係数には一切の
変化がない。
 悪夢、デタラメ、非常識。そういった言葉を具現化したようなこの異常事態に、人々が騒ぎ立てないはずがなかった。
 テレビではニュースキャスターが地球崩壊の前触れだとまじめな顔で解説し、新聞には嘘と誇張と妄想が連日一面を我が物顔で占拠
し、ネット上では竜巻という例えですら控えめに聞こえるほどの大混乱が巻き起こった。
 そしてその渦は一秒ごとに、現在進行形で膨れ上がっているのだが、そんなものを気にしている余裕が八坂大吾にはなかった。
 安いこととボロいことで有名なアパート、石橋荘。大騒ぎに揺れる世間から切り離されたような静寂を保っているこのアパートの、
一階の北の端にある最も日当たりの悪い106号室。くたびれた畳敷きの狭苦しいその部屋の中で、大吾はうなだれていた。
「あーあ、買って来たばっかりなのに」
 呆れを表情に滲ませながら大吾が摘み上げたのは、空のビニール袋。ワイマートという店名がでかでかと印刷されているその中には、
ついぞつい五分ほど前までタイムセールの品であるニンジンが大量に詰まっていた。
 だが、今はない。ほんの少し大吾が目を放した隙に、ほとんど食われてしまったのだ。
 辛うじて残っている最後の一本は大吾の正面、ちゃぶ台に座る居候がこれ見よがしに握っていた。
「おいイナバ、いくらなんでも食いすぎだろ」
「しゃーないじゃん、腹減ってたんだもの。それに、もう12時回ってるんだよ? 帰りが遅い大吾が悪いの」
 悪びれた様子もなく、イナバと呼ばれた居候はニンジンをかじった。何の臆面もなく、生のままで。
「んーまい! やっぱニンジンは生にかぎるね!」と、満面の笑顔で足をバタつかせるイナバ。その仕草もそうだが、他人が買った物
に勝手に手をつける当たり、実に子供っぽい。
 さりとてそれとは対照的に、ホットパンツから覗く足は白く、すらりと長い。これだけでもかなりの破壊力だというのに、あまつさ
え上半身にはタンクトップ一枚しか着ていなかったりする。そのため、形の良い胸の先の方が控えめに自己主張していた。
 無防備というかアンバランスというか、何ともけしからん居候である。
「まったく」ぼやきつつ首を振り、大吾は呆れたフリをした。紳士で居られる自信が揺らいできたからだ。
 なので大吾は気を逸らすことにした。イナバの正面に腰を下ろし、彼女の一番特徴的な箇所をじっと見詰める。
「なに? どったの?」
 ボリボリとニンジンを頬張りつつ、首をかしげるイナバ。肩口で切りそろえられた白い髪がさらりと揺れる。
「いや、何度見ても不思議なもんだと思ってな。俺には、というか地球人にはついてないわけだし」

19 :No.05 ニンジンの天ぷら 2/8 ◇71Qb1wQeiQ:08/09/01 11:53:45 ID:sWnHCKzj
  ちゃぶ台に頬杖をつきつつ、大吾はなおも視線を動かさない。
 じっと大吾が見ているのは、イナバの頭。
 そのてっぺんからひょっこりと顔を覗かせている、ウサギの耳だ。
 髪と同じ白い色をしているそれは、つけ耳ではない。本物の耳なのだ。
「そりゃまー当然っしょ。あたしは月の住人なワケだし」
 茎だけになってしまったニンジンを名残惜しそうに弄びつつ、イナバは赤い瞳を細めた。
 充血している目とは根本的に違う、ルビーのような虹彩を湛えた瞳。その赤色を盗み見つつ、大吾は思い出す。
 三日前。夜勤のバイトの帰り道で、発見してしまったウサギ耳の変な行き倒れ。
 放置しているのも何だか夢見が悪そうなので、連れ帰って介抱してみた所、そのままなし崩し的に居着かれてしまって現在に至る。
 居候の理由は確か「帰りたくないから」だったか。それが本当なのかどうかはわからないが、何とも子供のような言い訳だ。
 とはいえ、その理由を認めてしまった大吾も大吾だ。惚れた弱みと言ってしまえばそれまでなのだが。
 そんな大吾の胸中を知ってか知らずか、イナバは「ねぇ大吾」と真正面から大吾の顔を覗き込む。
「な、なんだ?」
 感づかれたのか、とどぎまぎする大吾。
「リモコンとって。あとコレ捨てといてね」
 無造作に突き出される茎だけになったニンジン。どうやら考え過ぎだったようです。
 複雑な表情を浮かべつつ、大吾は「ほらよ」と手元にあったリモコンをイナバに突き出す。
「さんきゅー」
 リモコンとニンジンを交換し、イナバはテレビをスイッチオン。最近ちらつきが目立って来たブラウン管に映り出したのは、昼休み
の顔と言っても過言ではないサングラスの芸人。ヅラであることが半ば公認化している彼は、今日も今日とて呼ばれたゲストと無駄話
に花を咲かせていた。
「そういえば、気がついたら歌わなくなったよねこの人。昔は始まるたびに『ご機嫌ななーめはまっすぐに♪』とか歌ってたのに」
「そういやそうだな」
 あの歌は結構好きだったんだけどなぁと大吾は頷いて、直後に首をひねった。
「いや、ちょっと待て。何でそんな事を知ってるんだイナバ」
「何でって、だって月にも電波入ってるもの」
 しれっと凄い事を言うイナバに、大吾は思わず絶句する。
「マジか」

20 :No.05 ニンジンの天ぷら 3/8 ◇71Qb1wQeiQ:08/09/01 11:54:08 ID:sWnHCKzj
「マジよ。まぁ、正確には電波を強制的に転送してるだけなんだけどね」
「それは犯罪じゃないのか?」
「大丈夫大丈夫、だって月には地球の法律なんか通用しないもの。治外法権ってヤツ?」
 何故か自慢げにふふん、と胸を逸らすイナバ。そんな格好をされると、自然と双球が突き出される格好になるわけでして。
 だから大吾は全力でブラウン管に意識を集中させようとして、見事に失敗した。顔は方向こそテレビを向いているのだが、眼球が左
右ともに釘付けになったまま動いてくれないのだ。なまじイナバの視線が明後日の方向に向かっているため、バレそうでバレないこの
スリルがたまらんと言うか何と言うか。
 結局大吾の双球観測は、イナバが「そういえばさ」と声をかけてくるまで続いた。
「なっ、なんだ!?」
 思わず声が裏返ってしまった。今度こそ感づかれたか、と大吾の背中に冷たいものが流れる。
「あんなにニンジン買って来て何がしたかったの、って聞きたかったんだけど、何テンパってんの?」
 疑問に首をかしげるイナバ。どうやら杞憂だったようで、大吾は内心で胸を撫で下ろす。
「ああ、いや、なんだ、安いから買い溜めようとしただけだよ。まぁ、とりあえずはニンジンの天ぷらを作ろうかと思ったんだがな」
「ニンジンの天ぷら?」ピクリ、とイナバの耳が揺れる。「何それ? おいしいの?」
「うまいぞ。ニンジンをスライサーで細切りにして粉を絡んで、一口大にまとめて揚げるんだ。こうすると軽い歯ごたえにニンジンの
甘みが合わさって、なかなか良い感じのおかずになる」
「へー! じゃあ早速作ってよ!」
 ルビーの瞳を輝かせながら、イナバはちゃぶ台に体を乗り出す。が、大吾は取り合わない。
「その材料を全部食っちまったのはどこのどいつだ?」
 先ほどリモコンと交換したニンジンの茎を突きつけると、イナバはバツの悪そうな表情を浮かべた。
「あー、そっか。ごめんね?」
 苦笑いを浮かべつつ、イナバはリモコンをいじくる。顔にはあまり表れていないが、その耳はしおれたチューリップのようにうなだ
れている。かなり残念だったらしい。
「まぁ諦めろ。恨むなら自分の浅ましさを恨め」
「むー」アヒルのように唇を尖らせつつ、イナバはテレビを切り替え続ける。
 やがてそのザッピングは、ニュース番組をやっているチャンネルで止まった。
 スーツ姿のニュースキャスターとコメンテーターが真面目に語り合っているその内容は、人類の頭上に輝く二つの割れた月について。
 その番組の内容に、イナバは表情を曇らせた。

21 :No.05 ニンジンの天ぷら 4/8 ◇71Qb1wQeiQ:08/09/01 11:54:30 ID:sWnHCKzj
 即座にリモコンのボタンを押すイナバ。一瞬で別のニュース番組に切り替わる。内容は、先ほどのチャンネルと同じく割れた月につ
いて。
 イナバは更にもう一度リモコンをブラウン管に突きつけて、しかしチャンネルを変えなかった。
「もう」と溜息をつきつつ、イナバはちゃぶ台の上にリモコンを置く。そのまま頬杖をつき、苦い顔でテレビをにらみつけた。その仕
草と表情に、自然と大吾の注意もニュースの方へと向いてしまう。
 二人の視線が交錯する、ちらつくブラウン管。その中で、ニュースキャスター達が凄い勢いで口角泡を飛ばしていた。
 それではやはり月と地球の関係は変化していないという事なのですね。ええハイその通りです。発生してから三日がたちますが未だ
に誰一人として理解不能の事態なわけですよ。この件の真相を掴むためにNASAが急ピッチで云々。画面の中で喋るのが仕事である彼等
は、頼みもしないのにそうした情報を湯水のように垂れ流してくる。
「なんか、喜劇みたい」
 だしぬけに、イナバはそう呟いた。
「喜劇? ニュースの内容がか?」
「ちょっと違うね」テレビ画面に視線を向けたまま、イナバは苦笑する。「正確には地球全体が、かな。昔から良くある事なのに、凄
い大騒ぎになっちゃってさ。まぁ、いつもの事だけど」
「昔から、良くある、いつもの事?」眉間にシワを寄せながら、大吾はイナバを見据えた。「どういう意味なんだ、そりゃ」
「どうって、言葉の通りだよ」苦笑を口元に張りつかせたまま、イナバは大吾と視線を合わせる。「月には魔力がある、って聞いた事
ない? あれは本当の事なの。真っ二つに割れても大丈夫だったり、地球人の記憶とか情報とかをまとめて書き換えられるくらいの凄
い魔力が、月にはあるんだ」
「魔力、ねぇ」
 思わず眉間のシワを深めてしまう大吾。それを目ざとく見つけたイナバは、不機嫌そうに目を細める。
「あー、信じてないでしょ大吾」
「それは」当然だろ、という続きの言葉はノドの奥で潰れて消えた。何せ大吾の正面に居る居候には、頭にウサギの耳が生えている訳
だし、何より月の現状を最も適切に説明できる理由ではないか。
 三度ほどちゃぶ台の隅を小突いた後、大吾は「いや、信じるさ」と肩をすくめた。そしてそのまま、テレビへと視線を戻す、
「そう? なら良いけど」
 顔の上から不機嫌を消し去り、イナバもブラウン管に目を向けた。
 画面の中では、ニュースキャスター達がフリップを取り出しながら、変わらぬ内容の会話を延々と続けている。
 意味も中身も益体もさえも無い、純然たる雑音。それを聞き流しているうちに、大吾は「ああ」と思い至った。

22 :No.05 ニンジンの天ぷら 5/8 ◇71Qb1wQeiQ:08/09/01 11:54:51 ID:sWnHCKzj
 確かに、これは喜劇だ。人類全体を否応なしに巻き込んだ、三流以下のドタバタ劇。これでは一発芸人の寒いギャグの方がまだマシ
だと、自信を持って言い切れてしまう。何せその劇の主役が、大吾の隣であぐらをかいているのだから。
「ねぇ、大吾」
 出し抜けに、イナバが伏目がちにつぶやいた。
「何だ」
「あたし、やっぱり帰った方が良いのかな、月に」
「そんな事を聞かれても困るな。第一イナバが月に帰って、何か変わるのか?」
「うん、劇的にね。そもそも今回月が割れたのって、あたしの責任だし」
「ほー」ぞんざいに返しつつ、大吾はちゃぶ台に頬杖をつく。
「驚かないの?」
「実感がわかない、ってのが正直なとこかな。それに、何となくそんな予想はしてた」
「そっか。まぁ、こんな耳してるもんね」
 イナバの頭上で、ウサギの耳がゆらゆらと揺れる。そのうちの片方、右の耳を弄びつつ、イナバは続ける。
「ずーっと昔に、月で戦争があってね。その影響で月は表面が穴ボコだらけになった上に、真っ二つに別れちゃったんだ。で、困った
月の住人達は休戦して知恵を絞って、二つになった月を戻そうとしたの。そうして作り出されたのが、カナメっていう役職」
 右の耳から手を離し、今度は左の耳をいじるイナバ。
「カナメって言うけど、つまりは人柱みたいなもんでさ。月の真ん中で、二つの半月が分かれないように、ずーっと押さえてなきゃい
けないんだ」
「魔力でか?」つぶやき、大吾はイナバに向き直る。
「そう、魔力で」頷いて、イナバも大吾に向き直る。「正確には月の魔力を操作して、だけどね。たった一人で星を支えきれるはずが
ないもの」
「たった一人で?」
「うん。カナメはたった一人で、何もない月の内側で、月を支えていなきゃいけないんだ。ずっとね」
 イナバは笑みを浮かべた。疲れと、翳りと、やるせなさに滲み切った笑みを。
「だからそれが嫌になって、逃げてきちゃったんだ。月の魔力を使って、瞬間移動で地球にね。でも、来たのはいいけどどうすればい
いのかわからなくなっちゃってさ」
「途方にくれて、そのうちに腹が減って行き倒れて、そこを俺に拾われたという事か」
「ご明察」

23 :No.05 ニンジンの天ぷら 6/8 ◇71Qb1wQeiQ:08/09/01 11:55:25 ID:sWnHCKzj
 パチパチとイナバは拍手をしたが、大吾は嬉しくも何とも無かった。むしろ苦味に顔が歪んでしまっているのだが、イナバはそれを
無視して言葉を続ける。
「だからお礼を言っとくよ。ありがとね、大吾。この三日間、嬉しかったよ。何も聞かずに匿ってくれて、ご飯とか食べさせてくれて、
ホントにありがとう」
「大した事なんかしてねぇよ」バツが悪そうに、大吾はちゃぶ台を小突く。「大体、月に帰ったら処罰とかされるんじゃないのか?」
「大丈夫、多分軽いよ。何せカナメが脱走する事自体は、昔から割と良くあった事だからね。さっき言ったでしょ? この騒ぎは昔か
ら良くある事なんだってさ。日本に伝わってる昔話に、かぐや姫ってのがあるじゃない? アレもそうなの」
「そりゃビックリだな、あのお姫様は脱走者だったわけか」
 ならば自分は、さしずめ光る竹を見つけた翁というところか。そんな歳ではないのだが。
「けどよ、イナバは光る竹に入ってなかったじゃないか」
 真面目な顔で大吾がそういうと、イナバは笑い声を上げた。
「あはは。そりゃ大吾、当たり前だよ。脚色が入りまくった昔の話なんだからさ。本物はもっとつまんない上にバカバカしい話だよ?
 聞きたい?」
「謹んで遠慮しておこう。幻想は極力綺麗であるべきだ」
「そう。それは懸命だね」
 どうもかぐや姫の原典はよほど酷い話であるらしく、イナバの唇の端から含み笑いがこぼれている。さすがにその内容が少し気にな
って来たが、それでも大吾は聞かなかった。
 たとえほんの少しの間だろうと、イナバには笑顔で居てほしかったからだ。
 だが、その笑顔もすぐに消える。
 真顔に戻ったイナバは、その視線をテレビに向ける。ブラウン管の中映っているのは、相変わらずとんちんかんな解説を続けている
コメンテーター達。
 イナバが地球に来てしまったために、非常識という三流喜劇の舞台上で無理矢理踊らされている、不憫な地球人達の代名詞。
「いい加減に、終わらせないとね」
 その緞帳を下ろすために、イナバはゆっくりと立ち上がった。
「行くのか」
「うん。じゃあね、大吾。今までありがと」
 そして無造作に後ろ手を振りつつ、イナバは玄関へと歩いていく。もともと狭苦しい部屋だ、たどり着くまで十歩もかからない。
 何も言わぬままイナバはサンダルを履き、ドアノブに手を伸ばす。

24 :No.05 ニンジンの天ぷら 7/8 ◇71Qb1wQeiQ:08/09/01 11:55:49 ID:sWnHCKzj
 錆に軋んだ音を撒き散らしながら、ゆっくりと開く玄関の扉。外に広がるのは真昼の陽射しと、それに焼かれたコンクリートの熱気。
 その中へイナバは踏み出そうとして、しかし「待って、くれ」という大吾の声に動きを止めた。
「なに? 忘れ物はないと思うんだけど」
 振り返り、イナバは首をかしげる。
「いや、あるね」
 言いつつ大吾が摘み上げたのは、茎だけになったニンジン。
「まだ食ってないだろ、ニンジンの天ぷら」
「それは忘れ物じゃないと思うけどな」
 淡い笑みを浮かべながら、イナバは頷く。
「けど、うん、そうだね。気が向いたらご馳走になりに来るよ」
「そうか。じゃあ、大量に作って待ってるからな」
「うん、楽しみにしてるから」
 ひらひらと手を振りながら、イナバは106号室から出て行った。
 後に残ったのは大吾と、ニンジンの茎と、雑音を流し続けるテレビだけ。
「はぁ」とこれ見よがしに溜息をついてみても、茶々を入れてくる居候はもう居ない。
「一気に静かになっちまったなぁ」
 ぼやきつつ、大吾は判然とテレビに視線を向ける。
 ブラウン管の中では未だにコメンテーター達が月の分析を続けて、いなかった。そのかわりに都内で流行のスイーツがどうの、とか
いうどうでも良い事を垂れ流している。
「あれ?」
 不信に思い、大吾はチャンネルを無作為に切り替える。だがどこの番組を見ても、割れた月についての特集どころか、情報のかけら
さえ見つけることが出来なかった。
 まさか、と思いながら大吾は外に出る。靴は履かない、履いている時間が勿体無い。
 コンクリートが足の裏を焼き、砂と石ころが容赦なく突き刺してくるが、大吾は気にも留めない。その意識と視線は雲の上、突き抜
けるような青空にのみ向いている。
 目的のものは、程なくして見つかった。
 満月。二つに分かれていない、純然たる円形をした白い月が、太陽の脇で控えめに輝いていた。
「これが月の魔力、か」
 溜息をつくような小声で、大吾はそうつぶやいた。

25 :No.05 ニンジンの天ぷら 8/8 ◇71Qb1wQeiQ:08/09/01 11:56:14 ID:sWnHCKzj
 時刻は四時半、逢魔時。真っ赤な夕日に染め抜かれたいつもの帰り道を、大吾は歩いていた。
 あれから一ヶ月。
 色々と調べては見たものの、地球上で月が割れた事を覚えているのは、やはり大吾だけらしかった。
 だからあの日以来テレビから月が割れたなんて悲鳴は聞こえて来なし、新聞の一面記事に地球の破滅という愉快な文字が踊る事も、
ネット上で月に関する竜巻が吹き荒れる事も無かった。
 割れた月に関する事実と記憶は、地球上から痕跡すら残さず綺麗サッパリと消えてしまったのだ。
 まるであの居候は、大吾が見た夢か幻だったのだとでも言うように。
「冗談じゃないな」
 吐き捨てつつ、大吾はビニール袋をがさりと揺する。両手に下げた袋の中に入っているのは、ワイマートで安売りだった山ほどのニ
ンジン。予定している調理方法は、もちろん天ぷらだ。
「けど、アイツが居ないんじゃなぁ」
 落胆を胸中でくすぶらせつつ、大吾は頭上を仰ぎ見た。
 もちろん、月を見るためだ。血のような赤色に染め抜かれた夕焼けの中にあって、それでも鮮烈な輝きを放っている満月。
 その月が音もなく割れた瞬間、大吾は思わず足を止めてしまった。
 絶句したまま固まる大吾の耳に、ニュースキャスターの焦るような声が届いた。コンクリート塀の向こうにある、一戸建ての誰かの
家。その屋内から聞こえてくるニュースキャスターの声は、割れた月がどうのとかいう情報を、早口でまくし立てていた。
 どうやら幻覚でも、見間違えでもないらしかった。
「これも月の魔力、か?」
 確かに「気が向いたら来る」とあの時言っていたが、それにしても早すぎなのではなかろうか。
 何にせよ食い意地の張ったアイツは、きっと石橋荘の106号室で待っているのだろう。ならば、さっさと帰ってご馳走してやらねば
なるまい。
「今度は食われる前に料理しちまわないとな」
 居候の再来に口元をほころばせつつ、大吾は家路を急いだ。



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