【 うつしみ 】
◆zmMEjNb3Ok




76 :No.19 うつしみ 1/5 ◇zmMEjNb3Ok:08/11/23 23:39:10 ID:YAfkf9yb
 竹内さんに彼氏ができたと、島本さんが告げた。十二月のはじめ、恋人をつくるには、絶好の時期といえる。
 島本さんは竹内さんと仲がいい。僕は竹内さんに近づくために、まず島本さんと親しくなっていた。
「社会学の講義で一緒の人らしいよ。グループ研究で同じになったのがきっかけなんだって……」
 島本さんは僕を気遣うように、声を低くして言った。僕が竹内さんを好きだというのは島本さんには伝えてある。もちろん僕の下心は伏
せたままだ。僕は目論見通り彼女を通じて、竹内さんと親しくなることに成功していた。二人でお茶をする程度には。それが彼女の口から
そんなことを聞かされて、足もとをすくわれたような気分になった。もちろん彼女に非のないことはわかっている。
「へえ、そうなんだ。それは残念だな」
 僕はできるだけ落ち着いた声色を作った。しかし島本さんは僕の動揺に気付いているようだ。彼女の切れ長の目が、哀れみと心配に翳っ
ている。僕は苛立ちが昂ぶりそうになったので、話を他の知人やレポートのことなどにそらした。彼女は不自然に顔を明るくして、そうそ
う、と相づちを打った。
 その数日後、竹内さん自身の口から打ち明けられた。夕方に学食で、僕は彼女と一緒に食事をとっていた。
「うん、知ってる。同じ講義の人なんでしょ。島本さんが教えてくれた」
「え、真衣ちゃん言っちゃったの?」
「でも講義が一緒ってことしか聞いてないよ」
「それしか教えてないよ。まあ、でも久保田君なら……。あ、でもいちおう他の人には黙っててね」
 僕はハンバーグを口に運びながら頷く。雪国の生まれらしく、白い肌にいつも紅潮させた頬が普段は愛くるしく目にうつるのだが、今は
気障りに感じた。
 竹内さんはそれから詳しいいきさつを、問わずがたりに話し始めた。どういう所が好きなのか、どういう状況で告白されたのか、付き合
いはじめてどんな気持ちになったか。親友の島本さんにも伝えていないことをどうして僕に語るのかと訝しんだが、どうやら「男の子の気
持ち」が知りたいらしい。何をしてもらえば喜ぶのか、どんな態度を嫌がるのか、彼女はそんなことを聞きたがった。僕は当たり障りのな
いことを答えておいた。自分が卑屈なように思えて、わずかに胸が軋んだ。

 島本さんは僕に竹内さんの恋愛を伝えたことに、罪悪感を持っている風だった。僕は彼女とあまり話をしなくなった。竹内さんと仲良く
なり、また竹内さんに恋人ができた以上は、島本さんと関ることに意味を見出せなくなったからだ。それを彼女は、自分が余計な事を教え
たせいで僕の気分を害したと誤解している節があった。不快に思ったのは伝えられたときばかりで、数日もしたら島本さんへの憤りなどし
ぼんでしまっていたのだが、いっぽうで一度こぼれた彼女への関心を掬い上げる気も起きなかった。
『今夜はすごく冷えるね。ところで、お正月にはやっぱり実家にかえるの?』
 島本さんは僕の機嫌をうかがうようなメールをたびたび送ってきた。はい、いいえで答えられる質問にはそれのみを答え、それ以外のメ
ールは曖昧に返すか、返事をしなかった。
 竹内さんから恋人ができたと聞かされて十日ほど経った日の朝、大学へ行くのにN駅のホームで電車を待っていたら、反対ホームに止ま

77 :No.19 うつしみ 2/5 ◇zmMEjNb3Ok:08/11/23 23:39:38 ID:YAfkf9yb
った電車から、竹内さんが降りるのが目に留まった。僕と彼女は同じ駅を利用している。朝帰りをしたのだな、と僕は思った。そしてその
直観に引きずられて、諸々の観念がグロテスクな情感を伴って、あたかも生きもののように胸の奥からせりあがってきた。ああ、彼女は他
の男に抱かれたのだ。僕はうつむいて、拳を握り締めた。手のひらに食い込んだ爪の痛みが、震える胸を鎮めてくれるのを待ったが、心臓
はなお騒がしく打ち始めた。
 午前中は頭を押さえつけられたように重苦しい気分で講義をきいた。恋人ができるとはどういうことか。僕はただその一事に心をとらわ
れていた。
 恋人と恋人は綾取りのように沢山の糸で結びつけられている。けれどその錯綜する関係性は当人同士にのみ手繰れるもので、僕みたいな
他人にしてみれば、見える糸は一本のみだ。その一本が僕をひどく苦しめる。性のつながりだ。抱き合わない恋人などいはしないのだ。
 竹内さんは愛らしい微笑みを恋人に向けるだろう、安らいだ表情で彼にしな垂れるだろう、子供じみた甘えをこめて彼の手を握るだろう。
こうしたことは不快ではあるが、闇に消える火の粉のようなものだ。ほんとうに僕の心を焼く炎は、彼女が他の男の手に抱かれるというこ
と。その事実に尽きていた。
 午後最後の講義は宗教学の演習だ。教室に入ると教卓の前の席に竹内さんが座っていた。隣には島本さんの姿があった。僕は彼女たちか
ら離れた、一番後ろの席に着いた。間に人を置いて、竹内さんの姿を隠したかったのだ。
 講義が始まって数分ほど経つと、鞄の中の携帯電話が震えた。見ると竹内さんからのメールだった。『いま授業きてる?』とある。きて
るよ、と返すとそれきりだった。
 講義が終わる間際、若い女性講師が「来週の講義は休止。だから今日が今年最後の授業になります」と言った。
「それでちょっと早めの忘年会をやろうかと思ったんだけど、どうする? このあとヒマな人で飲みにいかない?」
 にわかに調子付いた二、三人の男子学生が拍手をあげた。他の学生たちは顔を見合わせている。その時また僕の電話が揺れた。
『私行きたい! 真衣ちゃんも行くって。久保田君も行こうよ!』
 竹内さんからだ。僕は少し考えたあと、わかったと返信した。
 皆いったん解散し、十九時に新宿駅で待ち合わせることになった。その少し前に東口に着くと、改札を出たところに十数人の学生が集ま
っていた。男女はほぼ同数。竹内さんと島本さんもすでに来ていた。
「先生はまだ来てないの?」
 僕はなるべく何気ないそぶりで竹内さんに声をかけた。隣の島本さんは伏し目がちだ。なんとなく怯えている風でもある。一七○センチ
近い長身が、萎れた植物のようだ。
「あ、来たみたい」と、竹内さんは改札の向こうを指差した。
 講師はみんなをあるビルの地下にあるバーに連れてきた。木をモチーフにしたアンティーク調の店内は薄暗く、天井から夥しい数の置き
時計が吊るされている。壁面には古式銃が数丁飾られ、洋酒やリキュールの瓶が至る所に置かれていた。何かの儀式でも行われていそうな、
怪しい色気のある内装だ。珍しがる学生たちを講師は得意気に見ていた。
 店内はあまり広くない。まとまったスペースがなかったので、学生たちは散り散りに席を取った。竹内さんと島本さんは講師のいるテー

78 :No.19 うつしみ 3/5 ◇zmMEjNb3Ok:08/11/23 23:39:57 ID:YAfkf9yb
ブルについた。僕はカウンター席に座る。隣には何度か口をきいたことのある、川瀬という女子学生がきた。
 僕は竹内さんと島本さんを視界の隅に置きながら、川瀬と喋っていた。アルコールが回ってくると互いに顔を寄せ、囁きあうようにして
話した。やや彫りの深い川瀬の顔立ちはオレンジ色の照明を受けて、目のふちに刺青のような影を作っていた。
「じゃあ、ベートーベンのピアノソナタだと、久保田君どれが好き?」
「一番がいいと思う。第四楽章がとくに好き。滑らかな副旋律にどこかためらいがちな主旋律のコントラストが、ぐっと胸にくるんだ」
 僕は右手で自分の胸を押さえ、感動するような表情をして、顔を川瀬に近づけた。川瀬はくっとふきだした。アルコールの甘い香りを帯
びた吐息が、僕の鼻にかかる。
「あは、変な顔。……ね、このお酒おいしいよ。久保田君も飲んでみて。モーツァルトって名前のお酒があるなんて知らなかった。チョコ
レートリキュールっていうのが、モーツァルトっぽいよね。甘くておいしい。ねえ、バッハやベートーベンはないのかな?」
「あってもあまり飲む気がしそうにないね。苦そうで」
 そうだね、と言って川瀬は笑った。カウンターに置いた僕の左手に、いつか川瀬の右手が添えられている。アルコールのせいか、彼女の
指には熱があった。首を斜めにかしげ、下から僕を覗き込む彼女の瞳には、動物的な媚態がうかがえた。僕はそれをじらすように目を背け、
川瀬のグラスを右手に取った。ミルクで割ったモーツァルトを口に含みながら、ふと竹内さんたちの方へ目をやると、楽しげに語らう竹内
さんの傍らで、確かに島本さんが僕を見ていた。彼女はすぐに目をそらしたが、僕に向けられていたまなざしには、悲しむような、暗い光
があったと思えた。その光は、なぜか僕の胸に淀みを生じさせた。

 十一時を過ぎたころに解散になった。川瀬は二人で別の店にと僕を誘ったが、朝が早いからと断った。
 N駅で降りた僕と竹内さんは途中まで一緒に帰ることにした。駅前からのびたアーケードを並んで歩く。ダンボールを敷いたホームレス
があちこちに寝転がっている。シャッターの前にうずくまる酔っ払いの姿もあった。
「久保田君、お店で川瀬さんといい雰囲気だったねえ。みんなで、あそこの二人だけなんか空気違うよねって話してたんだよ」
「そう? 普通に喋ってただけだけど」
 竹内さんはにやにやと、探るような笑みをむける。僕は、はは、と軽く笑ってかわした。
「……ねえ、ところでさ、久保田君、真衣ちゃんとけんかでもしたの?」
「なんで?」
「だって、今日真衣ちゃんと一言も口きいてなかったよね? 真衣ちゃんもなんか気まずそうな顔してたし……」
「別に。けんかなんかしてないよ。たまたまじゃないかな。竹内さんとだって、今日は話してなかったし」
「ほんとう? それならいいけど……」
 アーケードを抜けて大通りに出た。ふいに夜気が肌にひりひりと感じられ、僕らは身震いした。寒いね、と顔を見合わせて言った。仄か
に酔った竹内さんの頬が、いっそう冴えるように紅潮している。僕は彼女の体を壊しそうに強く抱きしめたい欲望を感じた。
「じゃあ私、あっちに渡るね。今週はもう授業かぶってないんだっけ。来週またお茶でもしようね。真衣ちゃんも入れて。ばいばい」

79 :No.19 うつしみ 4/5 ◇zmMEjNb3Ok:08/11/23 23:40:17 ID:YAfkf9yb
 そう言って竹内さんは横断歩道を渡ろうとした。僕は「ちょっと待って」と彼女を呼び止めた。
「ねえ、今から僕の部屋でお茶でも飲まない? ほら、今日はあんまり喋れなかったから……」
 竹内さんは、え、とひとこと言ったきり、言葉を継ごうとしない。視線を僕の胸元あたりに泳がせて、まごつくような仕草を見せた。
「もしかして、警戒してる……?」
「いや、そんなんじゃなくて……。うん……、でも、ごめんね、今日はやっぱり帰るね。ごめんね」
「……そう。わかった。じゃあまた来週に」
 ばいばい、と手を振って背を向けた竹内さんは、振り返ることなく通りの向こうの路地に消えた。横からベルが鳴るのが聞こえた。僕
が構わずにいると、老人の乗った自転車が、僕の前をのろのろと過ぎていった。
 部屋に戻り鞄を床に放り出すと気だるさがのしかかってきた。酔いの倦怠ではない。僕はコートを椅子にかけると、ベッドに倒れこむ
ように横たわった。明りが煩わしいが、消すのも面倒で、腕で目をふさいだ。音楽が欲しくなったが、ここで音楽を聴くのはあまりに自
己憐憫的に思えて、それがまた僕をもの憂くした。僕は、ああ、と唸った。自分はなにをしているのだろうか。
 バーで川瀬と睦みあったのは、竹内さんに見せ付けるためだ。彼女を部屋に誘ったのは、無論欲動に衝かれてのことだ。しかしどれも
意味がない。僕の行為は、風ぐるまのように虚しく空転している。彼女が他の男の手に落ちた。この事実が、僕をこうも滑稽にしたとい
うのか。
 バーで僕を見ていた、島本さんの目がふと浮かんできた。彼女は僕のいびつな姿の奥に、何かを見ていたのだろうか。
 頭に雲が降りてきて、僕は考えるのが億劫になってきた。夢うつつになったころ、携帯電話が鳴った。
「もしもし」
 島本さんからだ。どうしたの、と僕は重い舌で言った。
「うん、ちょっと……」島本さんは言いよどむ。車のクラクションが聞こえる。外にいるのだろうか。
「電車じゃないの? もしかしてまだ新宿?」
「うん」
「でも君、家は横浜だろ? 帰れなくなるよ?」
 島本さんは答えない。車の音は聞こえるが、人が騒ぐ声は聞こえない。どこかの通りを歩いているのだろうか。どちらも少し押し黙っ
た後、僕は「あのさ……家に、くる……?」と訊いた。島本さんは小声で、うん、と答えた。

 二十分ほどして島本さんはN駅に着いた。改札で待っていた僕を見る彼女の目は、やはりどこか後ろ暗い風だった。途中のコンビニで
缶チューハイとお菓子を買った。島本さんは律儀に割り勘にしたがったが、僕はそれを制した。
「楽なかっこうにしなよ」
 カーペットに正座していた島本さんは僕に従って足をくずす。黒いストッキングに覆われた細く長いふくらはぎを、揃えて横に投げた。
 缶チューハイをグラスに注ぎ、形ばかりの乾杯をする。会話が浮かばない。島本さんはグラスに目を落としたまま、親を待つ子供のよ

80 :No.19 うつしみ 5/5 ◇zmMEjNb3Ok:08/11/23 23:40:35 ID:YAfkf9yb
うに淋しげに佇む。男の部屋にきた女の姿とは見えない。僕は沈黙に任せることにした。彼女を呼んでおきながら僕にも戸惑いがあった。
「……あのね、ずっと言おうと思って」
 長い何分かが経ったころ島本さんが口を開いた。僕は窓に投げていた視線を彼女に向け直す。
「私、悠子ちゃんに彼氏ができて、嬉しかったの」
 彼女は罪の告白でもするように、おずおずと言った。グラスを両手に包んだ様子は祈っているようにも見えた。僕は彼女の言葉を待った。
「久保田君が悠子ちゃんを好きって知ってて、そう思ったの」
「それで、もしかして僕に悪いと思ったの……?」
 島本さんは小さく頷く。そんなことを、と言いかかった僕の口が、一瞬痺れたように硬直した。僕はなにかおかしい、と感じた。
「……僕は、竹内さんと仲良くなろうとして、君に近づいたんだよ?」
 痺れがほどけた唇は、半ばひとりでにそう言っていた。慰めとも、嘲りともとれる言葉だと思った。島本さんは僕を見ぬまま、わかって
た、と呟いた。
「わかってて、僕と友達でいたの?」
 島本さんの肩が小刻みに震えだした。華奢な体が、なお細く窄んでいくようだ。彼女のグラスの横に涙の粒が落ちた。
「ねえ、久保田君は、私の気持ちわかってた……?」彼女は縋るように言った。
 僕はどきりとした。島本さんの気持ち。どうなのだろう。いま思えば、わかっていたような気がする。竹内さんに恋人ができたと聞かさ
れて、島本さんを無下に扱うようになったのは、僕に対する彼女の気持ちを試していたのではなかったか。恋が終わり、その空虚を埋める
ための砂嚢として、島本さんが相応しいかどうか。思わず彼女をこの部屋に呼んだ意図も、ここにあったのかもしれない。しかし実相はわ
からない。僕は彼女の問いに答えられないでいた。
 島本さんは声をあげて泣き始めた。弱弱しい響きだ。僕は彼女に体を寄せて、その肩に手をかけた。
 僕を見上げた彼女の唇に僕は口付けをした。唇を離し、彼女の顔を見つめると、目じりから涙の筋がのびていた。横にだらりと垂れた彼
女の両腕は、もう頬を拭う力もない。そんなありさまだ。
 僕は彼女の胸に手をあてた。彼女は拒まない。ブラウスの生地の下には、魂が失せたような、頼りなげな柔らかさがあった。
「馬鹿な人だな」と、僕は自分自身も聞き取れないほど小さな声で囁いた。彼女のブラウスのボタンを一つずつ開け、背中に手てまわして
白いブラジャーのホックを外した。
「明りを……」島本さんは腕で乳房を覆い、呟いた。僕は明りを落とした。
 僕は彼女の乳房に唇を寄せた。乳首を口に含み、舌先でそっと舐めると、彼女の口から掠れた声が漏れた。押し殺そうとして押し殺しえ
ない、そんなはかない声だ。
 僕は、「僕は君の胸に触れながら、竹内さんを思っているんだよ」と告げたなら、彼女は何を思うのだろうかと考えた。僕の耳に沈むよ
うな彼女の声は、喘いでいるようにも、嗚咽しているようにも聞こえる。粒だった彼女の乳首を撫でながら、馬鹿なのは僕自身か、と思
った。                                                      <了>



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