【 地下道の人々 】
◆I8nCAqfu0M




7 :No.02 地下道の人々 1/4 ◇I8nCAqfu0M:08/12/06 17:26:56 ID:J+7I4c+C
「チキンレースは、鳥が走ってるわけじゃないだろ?」
「でもタコ焼きにはタコが入ってる」
「タイ焼きは?」
 私の質問にヤギは、水浴びをおえて地面に寝そべる日中のカバのような顔をして目を見開いていた。私が馬鹿な顔をする
なよと言うと、ヤギははっと我に帰って何も言わず歩き続けた。仕事場に到着すると、彼はいつも通り静かに集中力を高め
自分の仕事に取りかかった。彼は黙々と目の前にあるポンプの圧力を確認し、その数値を手元のメモ帳に判読不能なヤギ文
字で記入してゆく。
 我々の仕事は下水道の点検・清掃である。日の当たらない仕事だ。我々と言っても、私の所属する下水道管理課には5人
しかいない。そのうち2人はデスクワーク専門。よって実際に下水道の中を歩くのは私とヤギ、それから馬場の3人だけで
ある。馬場は大学で経営を学んでいて、親父さんもとある繊維系の一部上場企業の経営側にいる。真面目な頭脳派だ。だか
ら彼はよくデスクワーク組に付き合わされる。馬場君、これさ、このまま記入しちゃっていいんだっけ? 馬場君、あれ、
あそこの下水管、VPで大丈夫なんだっけ? 必然、たいてい私とヤギの2人で下水道に潜ることになる。今日もヤギと。
明日もヤギと。たぶん明後日もこれからも、ずっと、ヤギと。
 私は大学で8年間、様々な娯楽と合コンの盛り上げ方を学んだあと、私的な理由によってそこを中退している。まさに糞
のような時間の塊。そしてその塊は私の後ろに引きずられ、ずりずりと摩耗していくばかり。あれほど後輩達から搾り取り
続けた金欠の雀鬼は、今はもう点数の計算もできないのだろう。すり減る過去に、涙も流さずヤギと2人、毎日毎日下水管
のあらゆる網枝を清掃し、点検している。
 地下生活。そこには地上に溢れていたあの軟弱な人間の甲高い鳴き声や、女達との眩暈がするような駆け引きや、耳鳴り
がおさまらないほどの騒音に我慢することは、無い。週に二日、休みはあるが、昔のような時間の過ごし方はしない。地下
生活は私を浮世の刺激から隔離し、自省を促し、啓蒙し、私を人間らしく甦らせたのだった。

8 :No.02 地下道の人々 2/4 ◇I8nCAqfu0M:08/12/06 17:27:47 ID:J+7I4c+C
「終わった。とりあえず今日はここまで」
 ヤギはポンプの点検を済ませて私の肩を叩いた。ポンプの点検は心臓の検診と一緒だ。地下を巡る超多数の静脈に均等に
圧力を加えるこのポンプの点検は、手の抜けない大切な仕事なのだ。その仕事を邪魔しないよう、私はポンプ室内に持ち込
んだパイプ椅子に座って本を読んでいた。私の仕事は終わっていた。事前に取り決めたお互いの作業の分割はしない。これ
は私とヤギの間での暗黙の約束事だった。ヤギは注意力に欠陥があり、他人がのそのそと歩きまわる環境では本来の能力を
十分に発揮できないタイプの人間なのだ。就業当初、こんな会話をしたことがある。
「俺の作業は俺がやるから、ヒノはもう黙って見ててくれよ。もう何もしなくていいから」
「2人でやれば、作業時間は半分で済むだろ」
「知ってるけど、これ以外他にもうやることもないし。気が散るんだよ」
「気が散る? でも効率悪いだろ?」
「効率じゃないんだ。気がさ、全部散っちゃったら俺きっと、死ぬだろうな」
この後事務所に帰ってから、いたずらっ子のような無邪気な目で冗談を言ったヤギという人間を私は理解した。彼の点検報
告書は全て独自の速記法で書かれていた。変態だった。

「ヒノ君ヒノ君、あのさ、ちょっとこれ食べてみてよ、コレ」

 私とヤギが今日の仕事を済ませて事務所に戻ると、課長の岩戸が労いの言葉もなく満面の笑みとともにひよこ饅頭を差し
出してきた。下水道から帰ってきた私に。馬鹿だからだ。課長、ヤギに食わせればいいじゃないですかと私がうんざりして
言うと、
「ヤギ君は確かアンコ食べれないよね? 僕が買ってきたタイ焼きダメだったもん」
「ええ」
「ほーら。だからほら、とりあえず一口だけ、ね?」
私は下水の臭気で麻痺した味覚で、課長に勧められるままとりあえず一口齧ってみた。別に、おいしくは、ない。
「ほらね!見てよこれほら、絶対こう来ると思ってたんだよねぇ〜」
課長は私が齧ったひよこ饅頭を指さしながらぴょんっ、と少しとび跳ねてデスク組を見回した。デスク組は驚きの表情で私
の手元のひよこを見つめている。私も課長の狂喜に気おされて呆気に取られたままひよこを見つめていた。ヤギは馬場が財
布から小銭を出しているのを見てすべてを悟ったらしく、ニヤニヤと笑っていた。
「ほらね。君ならこう、喉笛からいくと思ってたんだよねぇ〜、はは。はい皆500円〜」

9 :No.02 地下道の人々 3/4 ◇I8nCAqfu0M:08/12/06 17:28:24 ID:J+7I4c+C
 次の日も、私とヤギはいつも通り地下世界に送り込まれた。この下水道という閉鎖空間においては、こと清掃という単純
作業においては会話というものがモチベーションの維持に非常に重要である。これを解さない者達にとって下水道は、地下
深く隔離されたカタコンベの棺桶も同様である。
「でもさ、似てない瓜だってあるだろ?」
「でも八百屋に並べられたらたいていどの瓜も同じじゃない」
「お前はもっとミクロな視点を獲得すべきだよ。そんなマクロな目線でみたら柴犬だってみんな同じ顔だろう?」
「マクロな視点で見たって、マナとカナは世界に2人きりなんだ」
「世界には自分のそっくりさんが3人はいるらしい」
「マナとカナの2人分で合計6人いるってことにはならんがね」
「ともかく、昨日お前がバス停で見たのはマナでもカナでもないよ。俺は駅でマナとカナが揃ってるの見たんだから」
断続的にとはいえ長期間2人きりで閉鎖空間にいると、ささいな事柄でも仲たがいの原因になることがある。
 長年連れ添った夫婦の喧嘩の根本的原因とは、つまり背広についた香水の香りでもなければ靴下を裏返しで脱いで洗濯機
に入れたことでもない。己の判断能力への懐疑と過去の自分に対する怒りである。遺伝子は、あの人となら良い家庭を築け
るに違いない、あの人の子供なら優秀な子孫となるに違いない、という価値判断によって伴侶を決める。それは病原体によ
って遺伝的に均整を乱されていない身体であったり、表情から読み取れる性格―ずる賢く生き延びることができるか―であ
ったり、地位や権力を奪取・維持できるだけの能力があるか、だったり。そして自分の能力を考慮して「この人なら捕まえ
ておけるわ」という範囲においてより優れた遺伝子を求める。が、彼の背広からは知らない女物の香水の香り。そこで彼女
はきっと、夫に対する怒りと同時にこう考えているはずである。「私は間違えた伴侶にこの15年間分の労力を投資してき
たのかも……」果たして彼女の遺伝子は自己の失敗を取り返しのつかないものであるかどうか判断し、これを忘れぬよう怒
りによって自らに刻みつけるのである。「2度とこんな人は選ばないわ、私の馬鹿!」
 狭い下水管の中で男二人がいがみ合えば、これはもう逃れようのない災難になることは分かっている。口角から泡を飛ば
し合い、納得がいかなければ汚泥まみれで引っつかみ合い、その後事務所に引き返し、上司に陳情しパートナーを変えるの
か、それとも最悪職場を去らねばならないかもしれない。私もヤギも頑固だから、あながちありえない結末ではない。
 だから我々は人間らしく聡明に、喧嘩をやめるのである。将来の損失を計算できない者達にとって、ここはさながら人生
を掛け金に戦う、地下闘技場になるかもしれない。

10 :No.02 地下道の人々 4/4 ◇I8nCAqfu0M:08/12/06 17:29:16 ID:J+7I4c+C
 翌日の金曜日も私はヤギと下水道へ。「敵を倒すにはまず味方から」という岩戸の書いた標語を真剣に吟味しながら地下
世界の平穏を確かめてゆく。途中、水に半分浸かってたゆたうコンドームを拾おうとした時に、私の頭の中でまた新たな哲
学が生まれようとしていた。
「刺激がさ、過剰なんだろうね」
「何が?」
「地上で暮らす人々は」
「ヒノは地底人じゃないし」
「日常的に騒音や、光の明滅にさらされてると、『耐性の獲得』とか『順応』ってのが始まるんだろう?」
ヤギは脳内の生理学について精通しているので私とは時々こういう『高尚っぽい感じ』の話をする。ヤギには私の話を聞き
ながら、ドパミン受容体のダウンレギュレーション、とかが見えているはずだ。
「『平和ボケ』は幸福受容体の鈍化だろ」
「おおざっぱだね」
「日常的な快楽に対する鈍化が始まるとさ、提供される娯楽も、人々の行動も、どんどん過激になっていくはずでしょ」
「パンチラじゃ物足りなくなる……と」
「ゲームの刺激に慣れた若者。彼らは日常生活でも僕ら地下でもそもそやってる静かな人々と同じ刺激レベルで満足出来る
のかな?」
「さぁ? 俺だってゲームくらいやるしなぁ」
「つまり、キレる若者と時代的背景を結ぶのは、『刺激に対する鈍化』だと思うんだよね」
「それはとっくに誰かが考えてる」
「文化的な進化も、ある刺激に対して鈍化して、つまり退屈になって起こったものって結構あるよね」
「うーん……。あ……」
「ん……?」
「タイ焼きはタイの形してるよな」
 私は、ジャック・ケルアックが描いた人々のような刺激的な生活を送らなくても、これで十分なのだと感じている。
 



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