【 非日常は確かにあった 】
◆h97CRfGlsw




38 :No.09 非日常は確かにあった 1/5 ◇h97CRfGlsw:08/12/07 23:39:55 ID:f3MEEGs/
 どうしてこう退屈なのだろうか。最近そんなことばかり考えている自分に気づいて、俺は嘆息しながら屋上へ向かった。放課後の一服は、すでに習慣になっている。
 彼女に気が付いたのは、屋上の出入り口屋根から延びる影が、普段とは少し違う形をしていたからだった。振り返ると、夕焼けを背に一人の少女が膝を抱えていた。
 あそこまで登るための梯子はない。少女が自力で登るには少し荷が重い場所だったが、まあ、そんなもの好きもたまにはいるんだろう。俺は内ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
「……」
「……おぅ」
 一息ついたところで、少女が自分のすぐ隣まで来ていたことに気が付いた。気配もなにもない不意打ちに思わず唸ってしまう。彼女は俺の口から煙草をむしると、無造作に握りつぶした。
「……熱くないのか? 大丈夫なのかよ」
「―――」
「ん?」
「――」
 彼女は日本語ではない何かを喋っている。どこかで聞いたような気のする言葉だったが、博識とは言い難い俺にはさっぱり理解できなかった。首をかしげると、彼女も首をかしげた。
 それから再び小声で何かを言うと、彼女は俺をきつい半目でしばらく見つめてから、再び屋上の屋根の上へと戻っていった。たん、と地面を蹴っての軽やかな一足飛びでだ。
「……なんだあいつ」
 彼女は夕日と正対して立ち、そよぐ風にスカートをはためかせていた。逆光に目が眩んで目をしばたたかせると、次の瞬間にはもう、彼女の姿は掻き消えていた。

「ねえ、昨日の通り魔事件のこと聞いた!?」
「……いや」
 早朝。……ではなく、少し遅刻して二時限目の放課。席に着いてすぐ、隣の席の涼子から話しかけられた。ずずいと顔を寄せられ、思わずその分だけ引いてしまう。
 昨日の事件云々は今日の話題の頭角なのか、周囲の生徒もそのことについて話しているようだった。最近頻発する連続通り魔事件。この高校の生徒からも、幾人か犠牲者が出ている。
「今度は二人だって。一人は頭を銃で撃たれてて、もう一人はその撃たれてる人に喉を食い破られたんだって」
「B級映画の撮影なら余所でやってほしいもんだ」
「あはは。……なんか、冗談みたいな事件だよね。犯人の手掛かりも全然掴めてないらしいし。しかも銃まで使う模倣犯まで現れたって……怖いね」
 へえー、とだけ返して教科書を机に詰め込む。涼子は眉根を寄せ、これ以上会話を振るのを断念したのか、自分も椅子に座って次の事業の準備を始めた。
 平和ボケが進むと言われる日本だが、こういう事件はままあることなのだろう。人を殺して気持ちいいと感じるのかは想像の埒外だが、煙草と同じで殺したいから殺すのだろう。
 犯人がどんな奴なのか気にはなるが、俺には高校を無事卒業することの方が重要なので変態の素行など気にしている場合ではない。なら遅刻するなって、それは無理ってもんだ。
「あ、そうだ。最近、君の身の回りで変なことが起きたりしてない?」
 涼子が、なにか思い出したように唐突にそう言った。顔を向けると、彼女はにっこりと微笑んでいた。嫌な予感に顔を引きつらせると、彼女は俺の内ポケットがある部分を突いてきた。
「なんか今日は制服からあんまり、煙草の匂いしてないし」
「……なにをおごってほしいんだ」
 どうしよっかなーと楽しそうにする涼子に肩を落としつつ、俺は昨日であった少女のことを思い出していた。退屈な俺の身に起こった変なことといえば、当面はあれに限られるだろう。

39 :No.09 非日常は確かにあった 2/5 ◇h97CRfGlsw:08/12/07 23:40:20 ID:f3MEEGs/
 屋上には滅多に人が来ない。ということでありがたく放課後に喫煙場所として使わせていただいているのだが、今日もまた煙草を奪い取られてしまった。
「なにすんだよ……」
「―――」
「何言ってるか分かんねえよ」
 彼女はポケットから携帯灰皿を取り出すと、その中に煙草をねじ込んだ。よく見れば手に先日火傷したのだろう水ぶくれがあり、懲りたのかと鼻を鳴らすと、半目で睨まれた。
 少女は再び言葉を発したが、やはり何を言っているのかわからない。彼女もどう意思を伝えればいいのか困窮しているようで、険しい顔つきで考え込んでしまった。
 ふと、下げられた頭の登頂に目がいった。彼女は日本語ではない言葉を喋るくせに、真黒い髪と目をしている。よくよく見れば顔つきは外人なのだが、遠目から見れば日本人に見えるだろう。
 どうやら髪は染めているらしい。生え際の辺りの白く光る部分に、そう納得する。瞳はカラーコンタクトだろうか? 夕焼けに赤らんだ視界では、なんとも言い難いが。
「……―――!?」
「あ、悪い」
 思わず髪の白い部分を撫でてしまっていた。彼女は過剰ともいえる程に俺から身を離し、眉根を寄せてこちらを睨んでくる。殺気すら感じて、俺はホールドアップして降伏を示した。
 彼女はふいと顔をそらすと、昨日と同じように地面を蹴って屋根に上った。膝を抱えて座り込んでしまったのを見届けて、俺は再びこっそりと煙草を取り出した。
「――――! ―――、――――!」
 途端、彼女は怒りの形相で頭だけ覗かせて注意を始めた。鼻をひくつかせて何かを嗅ぎ取るようなジェスチャーをし、そして鼻をつまんで俺の胸を指差す。
「わかったよ、うるせえな」
 鼻がきかなくなるから止めろと言いたいのだろうか。観念して、俺は煙草をポケットに押し込んだ。憮然としてこちらを見ている彼女を一瞥して、俺は屋上を後にした。

「最近煙草の匂いさせてないよね。禁煙してるの?」
 涼子が尋ねてくる。あれから一週間ほどが経過していた。屋上へ行く度にあの似非日本人に煙草を取り上げられるので、制服から香る煙草の匂いが薄くなってきたのだろう。
「というか、俺結構香水かけてきてるんだけどな。犬かよ、どいつもこいつも……」
「えー、そんなことないよー。案外わかるもんだよ、煙草の匂いって。好きな匂いだしねえ」
「お前も吸ってんのか?」
 どうなんでしょう、と涼子は笑う。どうでもいいことだったのでそれきり会話を切り上げようと顔を背けると、涼子はつれないなあと唇を尖らせた。
「もしかしてさ、誰かに吸うなって怒られたのかな?」
「まあ……そんなところだ」
「ねえ、それって誰?」
 素直に屋上にいる変な外人のことを話そうかと思ったが、教えてしまうと涼子まで屋上に通いかねない。憩いの場を守るためにも、俺は口をつぐんだ。
「まあいいや、別に。それより、今日の帰りにクレープおごってよ。約束してたでしょ?」
「……覚えてたか」
 懐具合が気になったが、まあそれなりに可愛らしい女子を放課後を過ごすのも悪くない。うきうきという効果音を散らして喜んでいる涼子に、俺はどんよりと肩を落とした。

40 :No.09 非日常は確かにあった 3/5 ◇h97CRfGlsw:08/12/07 23:40:41 ID:f3MEEGs/
 その日もポケットから煙草の箱を取り出すと、案の定彼女が現れた。放課後のこの時間になると俺が来ることを覚えて見張っているのか、手すりにもたれかかるまでも背中に視線を感じてはいた。
 再三文句を言っても一向に喫煙を試みることを止めようとしない俺にいい加減怒り心頭なのか、彼女は腰に手を当ててこちらを上目づかいに睨みつけている。
「だが吸う。新参者はお前の方だろう」
 箱を跳ねさせて、飛び出してきた一本を口にくわえた。横目で反応をうかがうと、彼女は小さな唇を尖らせ、どこで調達したのかわからない制服のポケットに手を突っ込んだ。
 取り出したのは、きらりと陽光を反射させる数センチ程のなにか。彼女は人差し指にひっかけた親指の上にそれを乗せ、ぴしんと弾いて俺の眉間に見事命中させた。
「いって……。なにすんだよ」
「……―――。―――――?」
 俺の眉間に跳ね返ったものを拾い上げると、彼女は俺とそれを見比べて首をかしげた。おちょくられていると判断した俺は、彼女の手からそれをひったくってやる。これは、弾丸か。しかも銀色?
 彼女は鼻を鳴らすと、俺から銃弾を奪い返して大事そうにポケットにしまい込んだ。そして俺の口から煙草を掠め取り、遠慮なくくしゃりと握りつぶしてしまう。
「?」
 握り込んだ煙草が変な感触だったのか、彼女は怪訝そうに手を開いた。そこには握力ですり潰されてしまった煙草の包み紙と、中身のチョコレートが手にこびりついていた。
「シガレットチョコだ。知らんかな」
「……?」
 俺はもう一本取り出し、包みを剥いて食べて見せた。からかう為にやった悪戯だったが、彼女の興味深そうな顔に思わず手を拭ってやり、もう一本渡してしまった。
 彼女は見よう見まねで包みを破り、慎重に口に含んだ。何度か咀嚼していくうちに、眼が驚愕に見開かれていく。甘いものを初めて食べたとでも言わんばかりの表情には、苦笑する他ない。
「……で、お前は一体何なんだ?」
「―――」
 彼女は俺の手からチョコの箱を抜き取ると、照れくさそうそっぽを向いて喋った。多分欲しがっているんだろう、頷いてやると、変に顔を引きつらせた。多分笑顔をこらえているのだ。
 怒った手前、素直に喜べないらしい。よく見れば整った顔をしているし、甘いものに夢中になる彼女はなかなかに可愛らしいものだった。得体も言葉も知れない外人ではあるが、案外和めるものだ。
 相変わらず色違いのプリン頭をそっと撫でてみる。意外にも彼女はこちらをじとりと見上げただけで、なにも言ってはこなかった。まんまと餌付けされたかと、俺は密かに表情を緩めた。

「……昨日なにがあったの?」
 翌日。いつもどおり遅刻してきた話しかけてきた涼子は、俺の顔を見るなり急に険しい顔になった。俺の顔に何かついてるかと返すが、そうじゃなくて、と涼子は首を横に振った。
「昨日、なにかあったでしょ? よかったら教えてほしいな」
「……いや、別に何も」
「ねえ、お願いだよ。君と私の仲でしょ?」
 上目使いにそう頼みこんでくる。なんだそれは色仕掛けのつもりかと言いたくなりながらも、まあそこまでして隠すことでもないかと、屋上にいる変な渡来人について話した。
 すると涼子は目を細め、俺の顔をちらと一瞥して黙考を始めた。一服する時間を邪魔されたくなかったので言わないでいたが、彼女がいる以上あそこで吸うことはもはや不可能だから、同じことだ。
「……異文化コミュニケーションだね。まあ、せっかくの機会だから、仲良くなってみれば面白いんじゃないかな。煙草も、気に入られたら吸わせてもらえるかも」
 涼子のことだから、てっきりどんな奴がいるのか見に来たがるのかと思ったが、どうやらそんな気はないようだった。にこやかにそれだけ言うと、さっさと席に戻ってしまった。

41 :No.09 非日常は確かにあった 4/5 ◇h97CRfGlsw:08/12/07 23:41:03 ID:f3MEEGs/
 小さめのロリポップキャンディを咥えて屋上へ行く。滅多に人がいないはずだった放課後の屋上には先客がいるようになってしまい、俺は口からまろび出た白い棒を彼女に抜き取られてしまった。
「―――、……?」
「飴だ。俺の食いさしでよかったら食べろ」
 飴の部分を口に含むジェスチャーをしてやると、彼女は素直にそれに食いついた。ここ一ヶ月近く通いつめてわかったことは、彼女はどうやら甘いものに目がないらしいということ。
 それだけだ。言葉もわからないし、彼女が何故ここにいるかも知らない。なんとか意思疎通を図ろうとしたこともあったが、別にこのままの温い関係でもいいかと俺は判断した。
 俺が手すりにもたれて座り込むと、彼女も同じように隣りに腰を下ろす。いつのまにかそれが日常になった。笑顔を振りまいてくれたりはしないのだが、僅かに照れくさそうな表情もまた乙なものだ。
「美味いか?」
 俺の言葉に、彼女は頷いて答えた。なんとなくのコミュニケーション。好かれたのか、はたまたお菓子を持ってくる変な奴という認識なのかはわからない。が、前者だったらいいと俺は思う。
 頭の白い部分も大分広がってきていた。からかってやるつもりでくしゃりと髪を混ぜてやると、彼女は擽ったそうに眼を瞑った。妹がいたら、きっとこんな感じなのだろうか。
「……―――、―――」
 彼女は少し考える仕草をしてから、俺の方を向いて唇に人差し指と中指を乗せた。そして掌を開き、こちら見せた。一瞬考え、はたと気づく。これは煙草を吸ってもいい、のジャスチャーか?
「いいのか?」
 彼女は咥えた飴をこちらに見せ、はにかむように微笑んだ。お返しにというつもりなのだろう。ありがたい提案だったが、実はここでしか煙草を吸わない似非不良の俺は、禁煙に成功していたのだった。
 俺もにやりとぎこちなく笑いかけて、頭を撫でてやった。煙草を吸うことによって、なにかしら彼女は困ることになるのだろう。なら、吸うわけにはいかない。飴だってまずくなる。
「……―――」
 譲歩をしたのに一向に煙草を取り出さない俺に何を感じたのか、彼女は一言つぶやいて、俺にぽてんと頭を預けてきた。おそる、と肩に腕をまわしてみる。彼女の体は、暖かかった。

「煙草、止めたんだね。なんだか代わりに甘いにおいがするよ。外国人さんは結局煙草吸わせてくれなかったんだ」
 この日も遅刻した俺は、一時限目をやり過ごすために人気のない下駄箱で時間を潰していた。それなのに唐突に涼子が現れるので、思わずびくりとしてしまった。気配を消すなよ。
「煙草吸えなくて辛くない? 酷いよね、自分が嫌だからって君に無理強いして」
「いや……なんか顔が怖いぞお前」
「そうかな。……最近、全然私の相手してくれないよね、君。ずっとその人のことばっかだよね」
 涼子は俺の隣に腰を下ろし、ぶすっとした顔で俺を見上げてきた。意味深な発言にどきっとしないこともなかったが、俺は無理に話題を変えることにした。
「煙草だけどな、一応お許しは出たんだよ。まあそこまでして吸いたくもなかったから、吸わなかったけどよ」
「……そっか、ずいぶん仲よくなったんだね。あんまり、いい気分じゃないなあ」
 涼子は大きな眼をすいっと細め、口元を歪めた。そして何を思ったか、突然俺に飛びかかってきた。冷たい床に押し倒され、なにしやがると文句を言おうとすると、彼女の顔が不意に急接近してくる。
 俺の頬に手が添えられ、唇が押し付けられた。そして生暖かく滑るものが伸びてきて、俺を唇をなぞる。無理に口内へと侵入してくる涼子の舌の感触に、ぞくりと背筋に鳥肌が立った。
「っ、ん……」
 小さな呻きを残して、涼子が離れていった。思わず歯を立てて、舌に噛みついてしまったのだ。突然のことに、動悸が痛いほどに激しい。口内に、僅かに涼子の血の味が残っている。
 涼子は一言ごめんねと呟くと、こちらを振り返りもせずに走り去ってしまった。いやはや、いつのまに俺はそんなに好かれていたんだと、冗談交じりに考える。でないと、頭の処理が追いつかなかった。

42 :No.09 非日常は確かにあった 5/5 ◇h97CRfGlsw:08/12/07 23:41:26 ID:f3MEEGs/
 その日の放課後。涼子は気付くと、既にいなくなってしまっていた。あいつの真意もわからないまま悶々としていたが、まあ、いずれ向こうから話をしてくるだろう。
 辺りを見回す。珍しく、まだ彼女はいないようだった。時々そういうこともあったから、俺は大人しく待っていることにする。今日は、彼女の好きなチョコレートを大量に持ってきていた。
「――――……?」
 頭上から声が聞こえてきて、俺は屋根に目を向けた。いつか見たように彼女は陽光を背に立っており、あの時と違うことと言えば、何か筒状のものをこちらに掲げていることくらいだった。
「よう、今日はお前の好物持ってきてやったぞ。降りてこいよ、逆光が辛いんだ」
 鞄から板チョコを取り出し見せびらかせてやる。シガレットチョコを与えてやって以来、彼女はこれに目がなかった。嬉しそうにかじりつく姿を見れば、俺の方も色々と落ち着くだろう。
 しかし、彼女はなかなか下りてこなかった。なにを躊躇っているのか、いつまでも眉間に皺を寄せたまま固まっている。呼びかけても手招きをしても、彼女は腕を掲げた姿勢のままだ。
「……――! ―――!」
 何か語気荒く呟いたと思ったら、彼女は持っていたものを屋根の床に叩きつけた。突然の荒っぽい動作に思わずびくりとしていると、彼女はようやっと降りてきた。
 緩慢な動作で、足取り重く近づいてくる。ずいぶん沈んだ表情をしているが……まあ、甘いものを口にすれば機嫌も直るだろう。俺はそう軽く考え、持っていたチョコを手渡してやった。
 彼女は俯いたまま、俺と少し距離を置いたところに立ち尽くしていた。受け取ったものを握りしめたまま、また動かなくなってしまう。どうしたもんだと困惑していると、彼女は腕で顔をこすった。
「……アリ、ガト」
「え……え? あ、ど……どういたしまして」
 突然日本語で言われ、面食らってつい敬語で返してしまった。片言だったが、わざわざ俺に言う為に勉強してくれたのだろうか。じんと胸にくるものがあって、俺は顔がほころぶのを止められなかった。
 そういえば、俺はこいつのことを何も知らないな、と改めて思った。せめて一言でも彼女の言葉を覚えていれば、こういうとき、洒落た返答もできたかもしれない。
 彼女はチョコの包みを破ると、控えめに食いついた。もぐもぐと咀嚼して、俺に笑顔を向けてくれた。俺も同じような顔を見せる。すると、彼女は突然、顔をくしゃりと歪めてしまった。
 必死に笑顔を作ろうとしているが、表情は泣き顔に崩れてしまう。チョコも取り落とし、よろよろと俺に近づいて制服を握りしめ、胸に顔を押し付けてくる。酷く震えだしたのに気付いて、俺は慌てた。
「い、一体どうしたよ? お前……?」
 わけがわからず、俺はあたふたと戸惑うしかない。少し低い背、髪から立ち上ってくる甘い香り、シャツに染み込んでくる涙の熱。そっと抱きしめてみると、小さな彼女は腕に収まった。
 なにか辛いことがあったのかもしれない。俺の知らないところで、取り返しのつかないことが起きたのかもしれない。俺はそれを知ることは出来ないが……せめて胸を貸してはやれる。
 少し力をこめて抱きしめると、彼女のすすり泣く声が聞こえてきた。俺に体を預けた、そのあまりに無防備なその姿。少しは信頼されていたんだなと、俺は思って――

「……あの、この前はごめんね。いきなりあんなことして……」
 最後に屋上で彼女と会ってから、五日が経っていた。ぱたりと彼女が姿を見せなくなってからも、俺は屋上に通い続けてきた。今日は、代わりに涼子が現れた。
 彼女が泣き腫らしていたことは覚えている。その後のことが、どうしても思い出せなかった。霞がかった頭の中に、頼りなげに小さくなっていた彼女の姿だけが鮮明に残っている。
 あの日から、五人ほどが立て続けに通り魔に襲われたらしい。もしかしたら、彼女もそれに巻き込まれたのではと、気が気ではない。銃まで使う狂った模倣犯がいなくなったのは、不幸中の幸いだ。
「待っててもしょうがないよ、もうあの人は来ないから。だから、私と一緒に行こうよ?」
 涼子が近づいてくる。発された言葉が、どろりと頭に浸透していくのを感じた。――何故彼女がそんなことを言うのだろうとか、彼女はどうなったのだろうとは、もう気にもならなかった。
 素直に涼子の手を取って俺は屋上を後にした。途中、きらりと陽光を反射するないかを見つけて、俺はそれを拾い上げた。しかしそれに触れた瞬間、指に鋭く激しい痛みが走り、取り落としてしまう。
 ……彼女は、一体どうしているのだろう。そんなことが一瞬頭をかすめたが、繋がれた涼子の手の暖かさがそれを霧散させる。そしてもう二度と、俺が屋上で彼女と出会うことはなかった。



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