【 ロマン・珈琲 】
◆TQd9MjVDR6




20 :No.07 ロマン・珈琲 (1/3)  ◇TQd9MjVDR6:08/12/13 23:04:21 ID:mT3Dik8p
 ぼくが思うに、宇宙に興味を持ち出すのは世の中のルールのほとんどが身に馴染んでき始めた
十歳以降で、その頃は宇宙に限らず自分の知れる範囲を超えたもの全てに対して好奇心が沸くた
めに、たとえばセックスだとかブラックコーヒーの味だとかの、未知という誘惑に引っ掛かると
いうよりはむしろ自ら飛び込んでいかなければならないというような強迫観念めいたものがある。
 友人の姪っ子の芽子が、たまたま友人宅を訪ねたぼくにそれを聞いてきたのもやはり彼女が十
一歳のときで、
「宇宙のはじっこってどうなってるの」
 という難解な問いにぼくが懐かしさを覚えながらも、どう答えたらいいものかあれこれ思案し
ているうちに、芽子は待ちきれない様子で、
「“くうき”も“じゅうりょく”もないんでしょ。宇宙にはなにもないの?」と、言った。
 二十一を迎えた一大人としてぼくは真摯に答えようとしたのだが、そもそも宇宙科学の学者で
すら明確には答えられないであろう問いに対して、普通の大学生であるぼく(子供の頃はそれな
りの宇宙オタクだったのだけれど)が正解を導き出せるはずもなかった。
 ぼくは芽子のおかっぱ頭をぽんぽんと叩いて親愛を示し、それから黒目がちの瞳をじっと見つ
めて一息に言った。
「いいかい、宇宙にとっては“はじっこ”とか“くうき”とか“じゅうりょく”なんてどうでも
 いいことなんだよ。そんなものははじめから“ない”ものなんだから。地球になぜ“じゅうり
 ょく”があるのかを考えるのは頭の偉い人だけで充分だし、ぼくや芽子にとっては今日の夕食
 のほうが重要だろ? それに宇宙には“はじっこ”も“くうき”もない代わりに、色んなもの
 がある。綺麗な星や燃えている太陽や、とにかくそういうロマンみたいなものがあって、つま
 り、だから、大事なのは宇宙じゃなくてロマンというか、つまりロマンそのものなんだよ」
「わかんない」
「実はおじさんも分からない」
 ぼくは友人が淹れてくれたブラックコーヒーに口をつけ掛けて止めた。
「これが宇宙の味かもしれない」
 芽子は少し冷めたコーヒーカップを両手で受け取ると、動物がはじめて見る飲み物にするよう
に恐る恐る口をつけた。
「……ニガい。宇宙の味わかんない」
 顔をしかめる芽子からカップを受け取って、そんなもんだよ、とぼくは言った。
 芽子はしばらくぼくを睨んで、それからぼくの右腕にお子様パンチを繰り出した。

21 :No.07 ロマン・珈琲 (2/3)  ◇TQd9MjVDR6:08/12/13 23:04:44 ID:mT3Dik8p
 二〇二〇年、六月十五日。日本に生温い雨が降り注いでいた頃、アメリカの有人ロケットが
火星に降り立った。世界は何度目かの宇宙ブームに包まれて、ロケットがある国の人々も、な
い国の人々もみんなが宇宙に、火星に夢を見た。もちろん火星には荒涼とした平原が広がって
いるだけだったが、人面に似た岩や水の痕跡が発見されるとやはり世界中が盛り上がった。
 ぼくは三十五歳になって、うだつの上がらないサラリーマンを続けていたけれど、周りの流
れにのって宇宙関連の雑誌を講読するようになり、そうしてふと思い出したことがあった。き
っかけになったのはその雑誌のコーナーのひとつで、子供の投稿が載せられていた。投稿は大
体どれもが、いつか宇宙飛行士になりたい、というようなニュアンスの文末で締められており、
それは二十数年前のぼくの夢そのものだった。
「ご注文は?」
 ぼくが『MY SPACE』という雑誌に夢中になっている間に、ウエイトレスがいつの間にか脇に
きていて忙しそうにそう言った。
 ぼくはブラックコーヒーを一つ頼んで、再び雑誌に目を向けた。
 いつの時代も子供は宇宙に興味を惹かれるようで、心なしかぼくが子供だった時代よりも関
心が高まっているような気がした。ぼくが宇宙に熱心だった頃、周りの友人もそれなりに興味
は持ってはいたが、それは単純な好奇心という枠に収まる程度のもので、枠を少し逸脱したぼ
くのような子供は宇宙オタクと呼ばれて、やはりマイノリティーだった。奇異の目を向けられ
ることはあれど、尊敬の眼差しでみられることはなかったのだ。
 ところがいまはどうだろう。テレビ番組には宇宙特集が組まれ、これからは宇宙がマーケッ
トになる、などと豪語するエコノミストも現れた。宇宙工学を義務教育としてやるべきだ、と
主張する一派や実際に宇宙開発関連の専門学校まで多く登場し始めた。
 そういう現状をぼくは、なんだかなあと思ったりする。科学が発達して様々な謎が解明され
ることや宇宙が身近になることは一種の快感でもあるのだけれど、同時に色褪せるような、
“もったいない”気がしてならなかった。
 とある日本人宇宙飛行士がインタビューで言った。
『私が宇宙飛行士になったのは、星や地球の“生”をこの目で見たいからであって無機質なコ
 ンピューターの操作を覚えるために宇宙飛行士を望んだのではない』
 この発言はNASAがやたら最新の機器類を導入したがった時期のもので、アメリカより遥
かに劣った設備でどんどんロケットを飛ばしていたロシアでは大いに受けていた記憶がある。

22 :No.07 ロマン・珈琲 (3/3)  ◇TQd9MjVDR6:08/12/13 23:05:04 ID:mT3Dik8p
 その日本人宇宙飛行士は他にも『宇宙飛行士になるのはかねての夢だったが、いざなってみ
るとこれほど退屈な職業もない』などといった発言もしていて、言ってしまえばそういう性格
の持ち主なのだろうが、おそらくぼくが現状にもっている違和感と似ているのだと思う。
 自ら夢を追いかけて知るのがその宇宙飛行士がいうような失望感なら、向こうから近付いて
くる夢などに何の価値があるのだろう。そもそも宇宙に限らず何にしてもそうなのだ。
「お待たせ致しました。コーヒーのアイスになります。それからお客様、申し訳ありませんが
 店内が込んでいまして、お一人ならカウンター席にうつって頂けませんか」
 ぼくはぶしつけな願い出を即座に却下して、コーヒーに口をつけた。見渡してみても店内は
さほど込んでおらず、店はぼくのような中年が窓側に座っていることが外観を損ねるという観
点から売上に影響すると考えたらしい。
 ちっ、とひとり舌打ちをして、ぼくは雑誌の頁を捲った。そこには『私たちにとっての宇宙
とは』というタイトルで、新人編集者による新しいコラムだった。ぼくはこのコラムを楽しみ
にしていた。
『〜〜とかく、この頃の子供というのはゲームや漫画をしようともせずに自室にこもって黙々
 と宇宙雑誌を読んでいるらしい。いや雑誌を読むこと自体は我が社にとっても喜ばしいこと
 なのだが、私は子供たちの未来を憂慮する一大人としてもっと色んなことをしなさいと言わ
 なければならない。宇宙だ火星だ騒ぐ前に、ロマンのある恋愛をしなさい。火星に水の痕跡
 があろうと、それははじめから“ある”ものなのだからどうだっていいことなのだ。大切な
 のはそこにロマンがあることで、実はロマンというのはそこら辺に幾つも転がっている〜〜』
 ぼくがその記事を頷きながら読んでいると、向かいの椅子がさっと引かれて、「ブラックコ
ーヒーひとつ」と芽子が言った。
「宇宙のはじっこに関する新説が発表されたけど、おじさん聞きたい?」
 彼女は座るなりそう言って、まだ発売されていない来月の『MY SPACE』を片手ににっこりと
笑ってみせた。
「いや、おじさんはもっとロマンのあることを話したい」
 芽子はそれには答えずに、運ばれてきたブラックのコーヒーをくるくるとかき混ぜて、二十
五歳の女性らしくおしとやかに微笑んでいた。
 ぼくも色んなものが沈殿したコーヒーをかき混ぜた。それがブラックホールのような渦にな
ったところで、ぼくらは無言で乾杯をした。
 ロマン・珈琲。                                          おわり



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