【 翅 】
◆ocoMPoZMZc




34 名前:No.09 翅 1/3 ◇ocoMPoZMZc 投稿日:09/01/25 21:10:13 ID:S68s28oQ
 
 昆虫だーいすき。
 などと言いながら僕は蝶々の羽をプチプチとピンで留めた。スジボソヤマキチョウ。
僕の大好きな昆虫だ。黄色い翅とは言われているが、僕の眼には彼らは葉に擬態して
いるように、それでいて葉よりも美しく見える。一枚の葉に活き活きとした生命力と、
儚さを同時に注ぎ込んだようだ。翅脈は細く、こんな細やかなものを作ってくれる世界は
本当に掛け替えの無いものなのだと感じさせてくれる。
 スジボソヤマキチョウの展翅は完了した。ひとひらの葉を集めたケースをそっと閉じる。
午前の作業は以上だ。
 僕は窓の外を見た。遠い遠い窓の外には、木々の梢から落ちてくる緑光が様々な展体に
降り注がれていた。高い天井の下に、薄暗く、かつそれによって眩しい窓。
眼の眩むような幾多の標本ケース。
 ここの施設は2万種の蝶の死体で埋められることになる、巨大な標本ケースだ。
 それでもこれから失われる命の数に較べたら、きっとこれも一枚の葉に過ぎない程に
僕には思えるのだった。
 給湯室に行くと、事務員の赤川さんに出会った。彼女は僕が昆虫の次に好きな女性だ。
そういえば昨日僕は彼女と寝たのだった。トンボ眼鏡の可愛い、やせっぽちの女の子。
彼女の裸は真っ白で柔らかくて、指は翅脈のように細かった。それでも彼女はカロリー
摂取量を毎日気にしていた。僕は思うのだが、女性の性欲は全てファッションや
スタイルへの固執に変換されているのではないか。時にまさに身を削ってダイエットや
ブランドのバッグを買いあさる行為は、男性における執拗なフェティシズムを髣髴とさせる。
全て性のための純粋な行動である。トンボ眼鏡の赤川さんがカロリーを気にするのは、
赤川さんの変態性を垣間見られたみたいで僕は嬉しい。やせっぽちで柔らかい肩と乳房の女の子。
 ……そのようなことを考えていたら殆ど赤川さんの話を聞き逃していたらしい。折角
赤川さんが話しかけてくれたのに。とりあえず僕はにっこり笑って、「食事でも摂ろうか」と
彼女を誘ってみたのだった。


35 名前:No.09 翅 2/3 ◇ocoMPoZMZc 投稿日:09/01/25 21:10:43 ID:S68s28oQ
「日本だけじゃ足りないんだよね。一極集中型だと保全の機能が損なわれた場合全てが
失われてしまう。スイスやトルクメニスタンにも様々な分野の『集約展示』が始まってる。
種であったり技術であったりね。僕としてはチベットの山奥もいいと思ったんだが、
中国政府の反発に合いやはり無理だったらしい。」
 赤川さんは聞いているだろうか? 一応確認したほうがいいかもしれない。そうかもしれない。
経験的にそういう懸念を感じた。だが赤川さんはニコニコ笑っていた。
「私はあなたが楽しそうに喋ってるのを聞くのが好きなの」
 だから僕は彼女が好きなのだ。尤もそんな楽しい話をしていたわけではないのだが。
そういうところも愛嬌があってよい。百点だ。
 燐粉を乗せた風の中で赤川さんと食べるサンドイッチと紅茶は素敵だった。

 これはかなり信頼できる情報なのだが、世界は近く最終戦争に突入する。
 結局のところ、サンドイッチが足りなくなってしまったのだろう。小さな禍事が連鎖して、
お節介な聖戦が始まってしまうのは馬鹿馬鹿しいけれど自明の理だった。近く中東の
火薬庫から広がる火種は、多くのものを多い尽くす。沸き起こる煙は今の皆を包む大気を
変質させる。
 人間の作ってきた文明は、いや、自然が作り上げてきた宝石たちは、あっという間に
消え去ってしまう。その為に、人間は自分達に見えているものを保存し始めた。(勿論、
今見えてないものは葬られてしまう)
 そして、人間は人間を保存しようとする試みに至る。遺伝子や肉体だけでは人を、
人の文化を捉えることは出来ない。生きた体験や精神そのもの貼り付けにしなくてはならない。
脳に秘められた電気情報を切り開いて、ディジタルなピンで留める作業が必要だ。
全ての標本が灰になっても、コピー、分散して残すことの出来る情報の砦としての役割もある。


36 名前:No.09 翅 3/3 ◇ocoMPoZMZc 投稿日:09/01/25 21:10:54 ID:S68s28oQ
 僕はその『標本』になる予定だ。
 赤川さんが僕のおでこをピン、と指でつついた。
 僕はまだ没頭を続ける。何度も考えている……。精神は生きた状態で楔を打ち込まなく
てはならない。それは保存することでもあり、絶大な亀裂を生むおぞましい行為である。
でも僕には否定することは出来ない。命の中には不条理に死んでいくような、苦しみを
受けるような、何かの礎になるような、「そういうものもある」からだ。僕が人間の中の、
たまたまのそんな生き物のひとつである気もするのだ。ピンを打ち込んだ何千何万の
命を抱えて、僕という個体が知識の翅をピンで留められてケースの中で眠るのは納得できる
ことのような気がしていた。
 赤川さんが僕の顔をニコニコ見ている。きっと考えている僕の顔を見ていたのだ。
きっと「考えているあなたを見るのも好き」と言ってくれるのだろう。
 全てを知っているのかどうか。女は僕を許容してくれていた。春の日、無限に広がる草原と
空のように。冷たく柔らかい脱脂綿のように。
 この日の紅茶のことも後世に残るのだろうか。それならば少し報われるような気がした。
たとえ標本がいつかあっけなく崩れ去るものだとしても。
 結局のところ、僕は逃げるのに疲れたのかもしれない。人の力は儚い。翅虫のようで、
その作り上げたものがどんなに巨大でも。それでもやはりどこまでも無力だ。

 午後からの作業が始まる。大好きな虫を集める作業だ。そして帰りは赤川さんと一緒に帰る。
それだけでよかった。
 ケースから虫ピンを数本取り出し、放り投げた。虫ピンは冷えた保管施設の光に吸い込まれた。
僕はつまむ様にそれを丁寧に両手に納めた。
 僕は今、とても、羽ばたいている。



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