【 イブは風のなか 】
◆2LnoVeLzqY




28 名前:No.06 イブは風のなか 1/5 ◇2LnoVeLzqY 投稿日:09/02/01 19:01:12 ID:YHJnbH6d
 僕らのアパートは極めてゆるやかな速度で破壊されていった。まるで焦らすかのように、
あるいはこの上ない慎重さを期しているかのように、パワーショベルのアームは少しづつ
少しづつ、僕が拠り所としていた壁や柱を崩していった。アームが動くと、それらはいと
も簡単にアパートの一部であることをやめて一つの単なる瓦礫となった。その度に、めき
り、めきりと鳴る音は、僕には何かの悲鳴のようにも聞こえていた。
「ひょっとすると、本当に悲鳴だったりしてね」と、かすみさんは白い息を吐きながら呟
いた。コートをしっかり着込んだかすみさんは、それでも強い風が吹くたびに、ぎゅっと
前のめりに身を縮込ませている。ブーツを履いた細い両足はとんとんと小刻みに動き、そ
れが今の寒さを何より如実に示しているように思えた。朝のニュースによると今日の気温
は0度を越えないという。ポケットに突っ込まれた白い両手は、風で乱れた髪を整えると
きだけ、ポケットから姿を見せていた。
「……しっかし寒い。これなら、せめて雪でも降ればいいのにね。雪の中で見れば、たぶ
ん全然違って見えるんだろな」
「晴れていても、たぶん違うでしょうね」
「ホントさ。中途半端が一番よくない」
「今日の占い、僕は小吉でした」
「それは最悪だ。ちなみに、どういうわけかわたしも小吉だった」
「最悪ですね」
 僕らが話す間も、パワーショベルは休むことなく動き続けていた。エンジン音はけたた
ましく響いていたけれど、それでも、アームの動きだけはいじらしいほどに緩慢だった。
作業は朝から続いている。にもかかわらず、正午を回った今も、2階建てアパートはまだ
半分ほど原形を留めていた。最初にアームの動きを見たとき、かすみさんは「ちょっと早
く来すぎちゃったかな……」と苦笑いをしながら呟いたのだった。
 大家の宮崎さんが亡くなり、アパートの取り壊しが決まったときも、住んでいた僕たち
はそれほど困惑しなかった。というのも宮崎さんはずいぶん高齢だったし、1年ほど前か
ら心臓を患っていたとかで、もう先は長くないことは口にはせずとも気づいていたからだ
った。それに宮崎さんの家族――この場合は遺族と言うべきかもしれない――がこの古び
たアパートの存在をあまり快く思っていないことも、風の噂で知っていた。まあ彼らが快
く思わないのも当然で、ここのところずっとこのアパートには、僕とかすみさんの二人だ
けしか住んでいなかったのだから。新たな入居希望者も無く、部屋だって6つも余してい


29 名前:No.06 イブは風のなか 2/5 ◇2LnoVeLzqY 投稿日:09/02/01 19:01:27 ID:YHJnbH6d
るこのアパートが今日まで存続していたのは、ひとえに宮崎さんの好意の賜物に過ぎない。
遅かれ早かれ出て行く日が来るだろう、というのが、かねてから僕とかすみさんの共通の
見解だったのだ。
「ねえ向かい行こう。寒い」
 ふと、かすみさんが堪え切れなくなったように言った。向かいというのは道路を渡った
ところにある喫茶店で、そこの窓からは道路を挟んでこのアパートが見える。冷暖房のし
っかりした一番近い場所ということで、僕とかすみさんはよく遊びに行っていた。
 そもそも、この近所には遊ぶ場所やモノだけは、たくさん存在しているのだった。レス
トランやゲームセンターは複数軒立っているし、少し行けば大型のショッピングモールや
入浴施設もあった。コンビニは開店と閉店を繰り返し、そのたび僕たちはセールの恩恵に
与ったものだった。
 僕が頷くのを見ると、かすみさん黙って歩き出し、僕はそれに何も言わずに従った。
 喫茶店に入ると、そこは妙に蒸し暑かった。けれど客入りは冷え込んでいる、なんて冗
談を言うと店主に怒られてしまいそうだけれど、それはたぶん工事の音のせいで、僕とか
すみさんは何の問題もなく窓際の席を確保することができた。二人掛けのテーブルに、か
すみさんと向き合って座る。妙に気恥ずかしくなった僕は、注文の後、しばらくのあいだ
テーブルの木目の数を数えていた。
「まあ」とかすみさんは、あまり感情の篭ってない声で言った。
「これであたしとゆーやんの縁も完全に切れちゃったわけだ」
 僕は、「そうですね」と、なるべく感情を表に出さずに答えた。
 かすみさんは僕の隣の隣の部屋の住人で、他に住人のいないあのアパートでは、それは
同時に唯一の隣人であることを示していた。彼女は僕より5つ年上の25歳で、アルバイ
トをいくつか掛け持ちしながらデザインの専門学校に通っていた。春から大手アパレルに
就職の決まっている彼女は、取り壊しが決まったときに業者からあてがわれたいくつかの
入居先のうち、都心部にある家賃の一番高いマンションを選んだのだった。そのとき僕に
は大学に近かった一番安いアパートを選ぶ以外は不可能で、だから実質的に、その瞬間に
かすみさんとの縁は切れてしまったとも言える。アパートの取り壊しを見届けに来ていた
僕の隣にかすみさんがふらり現れた瞬間は、だから僕の方が驚いたほどだった。
「ゆーやんさ」
 コーヒーが来ると、かすみさんは思い出したように言った。


30 名前:No.06 イブは風のなか 3/5 ◇2LnoVeLzqY 投稿日:09/02/01 19:01:42 ID:YHJnbH6d
「この先どうするの?」
「どうって、ふつうに大学生続けますよ」
「いや、そうじゃなくてさ」かすみさんは、コーヒーにミルクを垂らしながら言った。「
わたしがいなくても、ゆーやん生活していけるの? ってこと」
 ミルクはコーヒーの中で、白いうずまきを作っていた。パワーショベルのエンジン音と
アパートが裂ける音が、喫茶店の中まで聞こえてきていた。パワーショベルが瓦礫を踏ん
で進むたびに車体はガタガタと鳴り、その揺れは道路を挟んで伝わってテーブルや僕のコ
ーヒーまでも揺らしていた。「だいじょうぶですよ」僕は答えた。「たぶん」
「だいじょうぶ、か」
 かすみさんはコーヒーを持ち上げ、口元に運ぶと、壊れていくアパートを横目に見なが
らコーヒーをすすった。僕はかすみさんの顔ばかり見ていた。唐突に、かすみさんが泣い
てくれればいいのに、と僕は思った。その考えは何の前触れもなく僕の頭をよぎり、かす
みさんが僕の視線に気づくに至って跡形もなく消えた。
「『だいじょうぶですよ』ね。その言葉、覚えておくよ」
「たぶん、って言ったじゃないですか」
「たぶん、何?」
「たぶんと言ったらたぶんです」
「中途半端はいちばん良くない」
「だけど」僕は半ばむきになって言った。「未来のことなんてわからないですからね」
 僕は、何でかすみさんはこんな話をするんだろう、と思っていた。僕らにはもっと話す
べきことがたくさんある。たとえば――たとえば、でもなんだろう。僕が2年と半年前に
このアパートに入居してきたばかりの頃、大学から家に帰ってくると、部屋の中が綺麗に
掃除されていることが何度かあった。いや、嘘だ、アパートを出るその日までそうだった。
板張りの床には綺麗にぞうきんが掛かり、シーツは外の物干しで風になびいていた。風呂
場には塩素の匂いがわずかに残っていた。雑誌は綺麗に発行順に並べられて、部屋の飾り
同然になっていた本棚に並べて揃えられていた。古くなった雑誌は紐できっちり縛られて
玄関の外に出され、それは僕の知らない間になくなっていた。
 遅くなって帰ってくると、晩ご飯がテーブルの上に乗っていることもあった。僕はほと
んど自炊をしないから冷蔵庫の中は常に空だったけれど、そういうときはいつも冷蔵庫の
中には食材が買い足されていた。そして、その食材で作れる簡単な料理のレシピがいくつ


31 名前:No.06 イブは風のなか 4/5 ◇2LnoVeLzqY 投稿日:09/02/01 19:01:55 ID:YHJnbH6d
か、晩ご飯の横に手書きの文字で添えられているのだった。
 僕が覚えていること、思い出せないこと含めて、この手の話はまだまだたくさんある。
僕が交通費に困っていると車で送ってくれることもあったし、外食に誘われたかと思うと
奢ってもらったことも数え切れないほどある。そんな話はいくらでも出てくる。僕は、一
生かかってもこの借りを返せはしないだろう、と思った。どうしてそんなに親切にしてく
れるんですか、と訊きそうになったことは何度もある。けれど結局訊かなかったし、訊か
なくて良かったのだと思う。かすみさんにも理由はあるのだろうし、必要ないことは詮索
しないことで僕はかすみさんとの関係を保ち続けてきたつもりだ。そして僕は、かすみさ
んにお世話を焼いてもらう役を忠実にこなすことを、かすみさんへの唯一の恩返しだと思
って、今日までやってきたのだった。
 かすみさんはコーヒーのおかわりを頼み、僕は自分のカップに残るそれを見つめた。
「もう一度訊くけどさ、ゆーやん」
 かすみさんは、僕を見ながら言った。
「ホントに、ちゃんと生活できる?」
「だいじょうぶですよ」僕は自分の手元を見つめながら返した。
 喫茶店の中は、ひどく熱かった。僕はかすみさんの視線から逃げるように窓の外を見た。
するとどうしてもアパートが目に入って、ちょうど僕の部屋のあったあたりが壊される光
景を、僕は嫌でも目の当たりにすることになった。202号室は冷たい金属のアームによ
って、まるで拷問でも受けているかのように、ちょっとずつ、ちょっとずつ削れていった。
まず天井が瓦礫の上に落とされ、ついで柱が1本づつ折り取られた。めきり、めきりとい
う音は僕の体と響き合って、僕はまるで、自分の骨が折れているかのような錯覚さえ感じ
た。僕は目が離せなかった。かすみさんが磨いた風呂場や床は、錆付いたアームが今まで
と同じ動作でゆっくりと崩していった。やがて、正面の壁が崩れ落ちると何もない室内が
ぽっかりと見え、その瞬間僕は唐突に、これこそが僕の部屋の正体なんだ、と思った。
 かすみさんは僕の部屋が壊されていく様子をじっと見ていた。かすみさんは自分の部屋
の取り壊しを見ていない。右端の部屋だった204号室は、工事の一番最初に取り壊され
た。かすみさんが僕の隣に現れたのは、アパートの右端があらかた取り壊されてしまった
後だったのだ。「ちょっと早く来すぎちゃったかな……」というかすみさんの言葉は、だ
からたぶん、嘘だったのかもしれないと思う。もっともこれは、たぶんにすぎないけれど。
「さて、と」


32 名前:No.07 イブは風のなか 5/5 ◇2LnoVeLzqY 投稿日:09/02/01 19:02:22 ID:YHJnbH6d
 カップを置く音と同時に、かすみさんが言った。「わたしはもう行くよ。これから仕事
があるんだ。いつまでもここにいるわけにはいかない」
 僕は自分のカップを見た。いつのまにか、僕はコーヒーを全て飲み干してしまっていた。
「飲み終わるまで」という引き留めの言い訳さえも、僕は失っていたのだった。
「コーヒー代、まとめて払っておくよ」
「いや、あの……」
「いいっていいって」
 そう言って、かすみさんは立ち上がった。彼女は店主に代金を払い、僕はその動作まで
も食い入るように見つめていた。かすみさんはそんな僕の視線を気にしたのだろうか、も
う一度だけ僕の傍に戻ってきた。そして座ったままの僕の肩に手を置くと、耳元で、囁く
ように言うのだった。
「だいじょうぶだよ、ゆーやんは強い子だ」
 そして、僕の返事を待たずにかすみさんは店を出た。僕はかすみさんが窓の外を横切る
のを見ていた。かすみさんはコートのポケットに両手を入れ、向かい風の中を身を縮める
ようにして歩いていった。その後ろではアパートの取り壊しが続き、僕の部屋は何もない
その内部の空間を、強い風の吹く寒空の下に無防備に晒していた。かすみさんはまた嘘を
言った、と僕は思った。それはどうしようもなく、僕のための嘘でしかなかった。
 僕はかすみさんが見えなくなったあとも、しばらくの間、その場所から動けずにいた。


 おしまい



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