【 Lost in death(お題:喪失) 】
◆LBPyCcG946




37 :No.09 Lost in death(お題:喪失)1/5 ◇LBPyCcG946 :09/02/08 21:13:16 ID:dzBQR+cn
 ニコルの瞼の上に強い光が灯り、ベーコンエッグの美味しそうな香りが鼻腔をつつくと、次にやってきたの
はけたたましく鳴るフライパンの音色だった。朝、ボロアパートの一室で、ニコルは叩き起こされた。
「ニコル! そろそろ起きないと遅刻するよ!」
 ニコルは言われた通りベッドから体を起こした。まだ一向に開く気配の無い瞼と無精ひげをぼりぼりと掻く。
手探りでタバコを探すが、見つからない。
「禁煙中。もう、すぐに忘れるんだから」
 と寝起きの中年男に説教をかますのは、学校の制服の上にエプロンを着たヤヤという少女だ。長い髪を後ろ
で結わうと、まるで母親のような頼もしさを感じさせる。まだ15歳だというのに、随分大人びた性格になっ
たのは、ニコルのせいがほとんどだろう。
「……今、何時だ?」
 ニコルはまだまだ開かない瞼を諦め、とにかく時間を尋ねてみる事にした。煙草が無いと、どうも目覚めが
悪いという事にして、1本だけでも吸う算段はやがて砕かれる。
「7時。いいから早く席に座って。朝ごはんが冷めちゃうわ」
 フンフンと鼻を鳴らしながら、ヤヤはエプロンを取って席についた。ニコルも仕方なくその重い腰をあげ、
足をもつれさせながら用意された席につく。テーブルには焼きたてで湯気の出ているベーコンエッグと、昨日
の晩の残りのスープと、バターのたっぷり塗られたパンが並んでいた。こうなれば、ニコルも目を覚まさざる
を得ない。
「それにしても早すぎだ。仕事は9時からだぞ」
「あら、きちんと朝ごはんを食べて食後のコーヒーを飲んでシャワーを浴びて新聞を読んでいたら、2時間な
んてあっという間よ。それにその髭もいい加減剃らないとね。まったく、それじゃまるで泥棒だわ」
 これではどちらが保護者だか分からない。ニコルは一言も反論出来ない情けない口にパンを押し込むと、既
に皿を洗い始めているヤヤの背中を見つめた。ニコルは自分の母の姿を見た事がなかったが、もしもいたらこ
ういう風なのだろうな、と思った。
「それじゃ、いってきます。隠れて煙草吸っちゃ駄目だからね」
 ヤヤは勢い良くドアを開け、瞬く間に去って行った。突風のような女の子、では年頃の女の子の表現として
はいくらかおてんば過ぎるが、ヤヤにはちょうど良いだろう。
 それからゆっくり目にニコルは支度をし、家を出た。工場についたらタイムカードを押して、持ち場に直行
する。いつもの位置に、いつもの面々。作業帽を深く被り、それを1日の始まりの合図とした。

38 :No.09 Lost in death(お題:喪失)2/5 ◇LBPyCcG946 :09/02/08 21:13:41 ID:dzBQR+cn
 ここでニコルのする作業は、退屈の塊だと言って間違いない。噂によれば、車に使われる部品を作っている
そうだが、ニコルはそんな事どうだって良かった。ただ目の前を流れるベルトコンベアーに、頭の中にこびり
ついた余計な考えを削ぎ落とし、流していくだけの事だ。繰り返される単純作業。ほとんどの人にとって、そ
れは最悪極まりない仕事だが、ニコルはそれでもいくらかマシだった。ニコルの過去には、錆び付いた血が滲
んでいる。
 昼休みの少し前。ニコルは呼び出された。滅多に作業場には降りてこない、工場長の声だ。
「ニコル。アダムスという方がお呼びだ」
 アダムス。ニコルはその名に覚えがあった。がめつい工場長がこうして自分の足を使って下っ端の所へやっ
てくるのは金の力に違いなく、そしてそのやり方こそが、ニコルの記憶の中にあるアダムスという名前と同一
人物である証明だった。ニコルはため息をつく。厄介な事になってしまった、と。しかし居留守を使う訳にも
いかず、ニコルは立ち上がり、工場の外に出た。
「ボーラス。久しぶりじゃないか。元気してたか?」
 アダムスはニコルの記憶にある姿よりも太っていた。いかにも趣味の悪いネクタイと、金だけはかかってい
そうなスーツを着ている。タトゥーの上には金の指輪が被さり、ただでさえ下品な風情を更に際立てていた。
「その名で呼ぶのはやめろ。俺はニコルだ」
「がはは。何だっていいじゃないかボーラス。探したんだぞ。この10年。1日たりともお前の顔を忘れた事
は無かった」
「ぞっとするね」
 アダムスは大きく笑うと咳き込み、「違いない」と言った。
「ところで、何の用だ」
 言う時も、ニコルは決してアダムスの眼を見ようとはしなかった。
「何の用だは無いだろう兄弟。長い休暇は終わりって事だ。そろそろ本職に戻ってもらおう」
「そいつは無理な相談だな」ニコルは突っぱねる「もうすっかり腕も衰えちまった。別の奴を探してくれ」
 アダムスの表情に陰りが差した。大量のぜい肉で包んだ鋭利な覚悟が見てとれる。
「俺は相談してるんじゃない。命令してるんだぜ。組織に戻れ」
 ニコルはまだ、アダムスと目を合わせようとしない。目を合わせれば、アダムスのペースに飲み込まれる事
が分かっているからだ。ニコルが冷ややかな沈黙を守っていると、アダムスは脅しの色を含んだ声でこう燻し
た。
「ニコル、あの子なんて言ったかな。ほら、思い出せよ。お前が殺った奴の子供だよ。一緒に暮らしてるんだ
ろう? 調べはついてるんだ」


39 :No.09 Lost in death(お題:喪失)3/5 ◇LBPyCcG946 :09/02/08 21:14:12 ID:dzBQR+cn
 アダムスはぐいっとニコルの顔に目を近づける。ニコルが目を瞑ると、ヤヤの顔が脳裏をよぎった。こうな
ってしまったら、最早ニコルに抗う術はなかった。アダムスは続ける。
「俺がでかい顔で街を歩ける理由は知ってるだろ? 手段を選ばないからさ」
 ニコルは目を開き、アダムスの目をじっと見据えた。そしてアダムスにも負けないどす黒い声で言った。
「仕事の件は分かった。だが、ヤヤには絶対に手を出さないと、今ここで誓いをたてろ」
 アダムスはニコルから少し離れると、小さく口笛を鳴らした。そして手を差し伸べるが、ニコルは握手を拒
否した。
「ああ、誓いならいくらでもたててやる。何せ俺はキリスト教じゃないんでね。しかしお前さんは変わってる
よ。殺し屋から父親なんて、俺がこれから大統領になるよりも難しいだろうよ」
 ニコルは真剣な表情でアダムスを見つめる。今度は決して視線を外さない。
「いつかあの子も気付くだろうな。自分の親を誰が殺したのかって事と、お前が血に飢えた狼だって事に。そ
うなったら、お前さんどうするんだ? また殺すのか?」
 アダムスの嘲りに満ちた声が、ニコルの逆鱗に触れた。だがニコルは耐えた。ここで爆発した所でしょうが
ないと冷静を装う。ヤヤがいなければ到底無理な事だ。
「……まあ良い。明日の夜、ここに書かれた場所に来い。詳しい話はそれからだ」
 アダムスはニコルに名刺を放ると、無用心な背中をニコルに見せ、去って行った。ニコルがもう逆らえない
事を、理解していたからこその余裕だった。
 今や裏社会を牛耳る首領となった、かつての同僚と一戦を交えて、ニコルには職場に戻る気力が残っていな
かった。タイムカードも押さぬまま、ふらつく足取りで家に戻る。作業着のままだったが、最早着替えすらま
まならない。ニコルはベッドに倒れこむと同時に眠った。何かを考える事が、もう嫌になっていた。
 雨が降っている。ニコルは真っ赤な傘をさして、じっと何かを待つ。見た事の無い通りだったし、見た事の
無い町並だった。ニコルの着ているスーツはあの日のスーツだ。親友を裏切った夜に着ていたから、それが喪
服だった。手には薔薇が握られている。地獄のような、真っ赤な薔薇だ。
 通りの向かいから、誰かがこちらに向かって歩いてくる。顔は暗く良く見えないが、女だという事は分かる。
傘をさしていないからずぶ濡れで、ニコルはそれを不審に思う。雨は激しくニコルの傘を叩く。
 女がニコルの側にやってきた。すぐ目の前にいるというのに、まだ顔が見えない。ニコルは戸惑う。逃げる
という選択肢もあるはずだが、金縛りにあったかのようにその場を動けない。
 女がニコルの胸に顔を埋めた。ニコルは肩に手を回そうか、一瞬悩んだがやめた。そっと肩に触れ、女を突
き放そうとした瞬間、腹部を鋭い痛みが襲った。女がニコルから離れる。ニコルの手には、薔薇よりも真っ赤
な血がついていた。それがニコル自身の物だと気付くまでに、かなりの時間がかかった。

40 :No.09 Lost in death(お題:喪失)4/5 ◇LBPyCcG946 :09/02/08 21:14:37 ID:dzBQR+cn
 ニコルは女の顔を覗き込む。女は笑っている。不気味な笑みで、だけれど喜びに満ちていて、怪しく光る瞳
は、まるで蛇のそれだった。両手でぬらりと光るナイフを持ったその女は、紛れもなく、ヤヤだった。
「あぁ!?」
「わっ!」
 飛び起きたニコルを待っていたのは、目を真ん丸くさせたヤヤの顔だった。その手にはナイフではなく毛布
が握られている。ニコルの額を大粒の汗が伝い、どうにか現実を取り戻させた。
「もう、びっくりさせないでよね」
 ヤヤはまた怒っている。ニコルは額の汗を拭い、ベッドから足を下ろすと、また煙草を探した。当然無い。
「帰ってきたらその服のまま倒れてるからびっくりしちゃった。寝るなら着替えくらいしてよね。あ、また髭
剃り忘れてる。いい加減にしなさい」
 ヤヤはニコルに、何があったのかは聞かなかった。聞かれていたら、ニコルは困った事になる。ヤヤは優し
い子だった。
「それと早くに帰ってきたなら連絡くらいちょうだいよね。大体ニコルは……」
 ヤヤの小言を止めたのは、熱い抱擁だった。ニコルはその手でヤヤの身体を力一杯引き寄せ、肩を掴んで抱
きしめた。耳を耳に重ね、顎を肩に乗せた。ただ湧き上がる衝動がニコルをその行動に移させた。それにニコ
ルは、ヤヤに涙を見せたくなかった
「ちょっ、何……」
「ヤヤ、ここを出よう。支度をするんだ。大事な物だけ持って、どこか遠くの町に引っ越そう」
「な、何よ突然」
「いいから、ヤヤ。俺の言う事を聞いてくれ」
 ニコルはヤヤを離さなかった。強く抱きしめたまま、ヤヤの言葉を待った。ヤヤの全身から力が抜けていっ
た。今まで随分と肩を張っていたのだ。体重をニコルに預けると、ヤヤの目にも水溜りが出来た。
「……ニコル、あたしね、知ってるの」
 それは、ニコルにとって衝撃的な告白だった。
「あたしのお父さんとお母さんを殺したの、ニコルなんでしょ?」
 ニコルは背筋に真冬の海の波の冷たさを感じた。それと一緒に押し寄せてきたのは、喉を下り落ちるウォッ
カのような熱い衝撃だった。ヤヤは柔らかな笑みを含む声で、いつもの調子を繕い言った。
「ずっと一緒に暮らしてきて、隠し通せると思ったの? ニコルって、間抜けなんだから」
「ヤヤ……」
 ニコルには、その後に続けるべき言葉が見つからなかった。

41 :No.09 Lost in death(お題:喪失)5/5 ◇LBPyCcG946 :09/02/08 21:14:57 ID:dzBQR+cn
 翌朝。ヤヤは学校へ行った。ヤヤはいいと言ったが、別れはきちんと告げるべきだとの、ニコルの配慮だっ
た。まだ夜までは時間がある。これから逃げれる所まで逃げて、それから考えればいい。ニコルにとっては、
ヤヤと暮らし始めてから最初に体験する爽やかな朝だった。これまでは、今までニコルの殺してきた人間の顔
がちらついたり、ヤヤの優しげな寝顔を見て心をちくりと刺されるような夜ばかりで、熟睡とは程遠かったの
だ。追い詰められた身だというのに、ニコルは自身が呆れる程に、たっぷりと睡眠をとった。
 これで全てが許された訳ではない。ニコルはそう戒める。だけれど確かにヤヤは昨日、「許す」と言ってく
れた。というよりも、もっと前からヤヤはニコルの事を許していた。それに気付かなかったニコルはやはり、
ヤヤの言う通り間抜けだった。
 ふと、ニコルの口元から笑みが零れる。そうだ、南へ行こう、とニコルは思う。ここから300kmも南に
いけば、農場があり、人手が足りてないと聞いた。ヤヤと共にまた、1から新しい暮らしの始まりだ。穀物や
果物や野菜を育て、羊か牛か山羊でも飼って、自由気ままに暮らせばいい。ヤヤもきっと気に入る事だろう。
 ニコルは頭の中のキャンパスに、色とりどりの絵の具で思い思いに描いていく。ヤヤが大人に育って行く様
と、四季の織り成す風景を。
 ヤヤも時を同じくして、ニコルと似たような思いで家路についていた。いつもよりも急ぎ足で、最後の通学
路を歩く。
 ヤヤがニコルの本当の顔を知ったのは、今からちょうど1年前の事だった。部屋を片付けていた時、偶然ニ
コルの昔着ていたスーツを見つけ、その内ポケットに入っていたのがヤヤの両親から送られた手紙だった。そ
の内容を見てヤヤは理解してしまった。ニコルが夜中うなされている理由と、時折見せる冷たい眼差しの意味
を。
 その夜、ニコルが寝付いた後、枕元には包丁を持ったヤヤの姿があった。全力を込めて、それをニコルの首
に振り下ろせば全てが終わる。しかし、ヤヤにはそれが出来なかった。
 ヤヤの失った物は余りにも大きすぎた。これ以上、ヤヤは何も失いたくなかった。例えそれが、両親を殺し
た憎い相手であったとしても、その時にはもう、ヤヤにとってはかけがいのない大切な家族だったのだ。
 ヤヤが家に帰ってきた。鍵を差し込み、回そうとすると既に開いている。行く時に閉めたはずなんだけど、
とヤヤは思いながら、ドアを開ける。
 ニコルがベッドに伏せている。
「また寝てるの? 寝るならちゃんと着替えてからって昨日あれほど言ったのに……」
 ヤヤはまた失ってしまった。ベッドの上にあったのは、





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