【 鏡(お題:境界線) 】
◆2LnoVeLzqY




16 :No.04 鏡(お題:境界線) 1/5 ◇2LnoVeLzqY:09/03/09 00:08:49 ID:rhzClf8B
「部屋に戻ったグラース一族の長男シーモア・グラースは」康清は同様の文字列をキーボ
ードに叩きながら口に出して言う。「おもむろにピストルを取り出すと、それで自らの頭
を撃ち抜いて自殺してしまうんだ」「はい。知っています」ノーマが応える。「その情報
は私のデータベースに記録されています。2世紀前の短編小説。著者はジェローム・デ」
「うんうん、そのとおり」康清はスクリーンに向き合ったまま、ノーマの言葉を遮るよう
に相槌を打った。放っておけばデータが尽きるまで延々しゃべり続けるだろう。康清は再
びキーを叩き始める。スクリーンの文字列が先へ進み、ノーマは、それを見たとたん予定
されていた発話を中断した。主人が特定の作業に没入している内は音を立ててはならない。
それはノーマのプログラムの最深部に記載されていることだった。人間型の多機能インタ
ーフェイスであるノーマの仕事は、第二に主人の身の回りの世話。そして第一に――必要
時以外は主人の邪魔をせぬこと。
 ノーマは康清の傍から静かに離れると、いつもの立ち位置である窓際に戻った。この窓
は壁のほぼの全面を覆う大きな窓だった。地上45階の高さに遮るものは何もなく、日光
はノーマの体の線に沿った影を、そのままの形で床に落としていた。
「ノーマ、それなら」ふと康清が訊いた。「どうしてシーモアは自殺してしまうんだろう
?」「わかりません」ノーマは即答する。「その質問の解答は私のデータベースに記録さ
れていません。……しかし解答足りうる可能性を有したテキストならあります。S大学文
学・心理学教授ドクター・セナハ『バナナフィッシュ試論』他にもいくつかありますが読
み上げますか? もっとも、130年以上前のテキストですのでお役に立つかどうかは」
「いや、いいんだ」康清は笑いながら首を振った。「僕はノーマの答えが聞きたかっただ
けだったから。ノーマ自身のね」「そうですか」ノーマは答えた。「ご期待に沿えず申し
訳ありません」「謝らなくたっていい。……ノーマは機械だから。仕方ないんだよ」「は
い」ノーマは声のトーンを落とし、その声に合わせるかのようにひどく残念そうな表情を
して主人である康清に答えた。それはある意味で、極めて正直な反応だった。プログラム
に忠実に。康清は、そんなノーマのことが格別に気に入っていたのだった。正直で純粋な
ノーマ――Norma。複雑な連語の頭文字だけを取った略称だったはずだ、けれど康清はも
う正式な名称を忘れてしまっていた。それにしても、と康清は思う。何と素敵な略称なの
だろう。Norma――100%の機械でありながら絶対的な普遍性を――“Normal”を企図
したようなこの名前。普通、平均、正常、ノーマル。これは人間に対する機械からの気の
利いた皮肉なのだろうか? それでも康清はノーマを信頼していた。女性型であるノーマ

17 :No.04 鏡(お題:境界線) 2/5 ◇2LnoVeLzqY:09/03/09 00:09:14 ID:rhzClf8B
に好意さえ寄せていた。ノーマは純粋で正直だ。ノーマはあいつとは違う。そう、あいつ、
芹沢キルトとは。
 康清は時計を見た。もうすぐあいつがこの部屋へやって来る時間だった。約束を取り付
けて来たのは向こうからだが、一体何だろう、やはり別れ話だろうか? だったらわざわ
ざ来る必要なんてないのに、おかしなやつだ。だいいち――と康清は思う。俺はどのみち
芹沢にはもう興味なんてないのだ。いまさら別れ話なんて何の意味もない。
 康清はスクリーンから目を離し、ふう、とため息をついた。と、そのとき、来客を告げ
る音が鳴った。康清はノーマに訊く。「誰だ、芹沢か?」「はい、芹沢様です。もうドア
の前にお見えになってます」「もうドアの前? 1階のセキュリティはどうやって抜けた
? ノーマ、お前が通したのか」「はい。芹沢様は康清様の大切なご友人ですから」
 ノーマが満面の笑みで応えたので康清は思わず苦笑した。これから目の前で繰り広げら
れるはずの会話を見聞きしたらノーマはどう思うだろうか? ……そして康清は、独り言
とはいえノーマについて「思う」という単語を使っていた自分自身に、さらなる苦笑いを
せずにはいられなかった。
 ノーマが芹沢をドアに出迎え部屋に通した。康清の前に現れた芹沢は、よそよそしいと
も思えるほどの外向きの格好だった。「まるで初デートのカップルみたいだな」康清は座
ろうともしない芹沢に言った。「ねえ」芹沢は康清の皮肉を無視して言った。「この子に、
少しの間外にいてもらえない?」芹沢の口調は穏やかだった、だが、その言葉は明らかに
ノーマを追い出せと言っていた。「できないね」康清は答えた。「ここは俺の家だからな。
俺の勝手だ」
 康清がそう言うと、芹沢は怒ったように言った。「なら、わたしの物はわたしの勝手に
させてもらうわ」そして芹沢は隣にある寝室へと消えていった。なるほど、と康清は思っ
た。どうやらわざわざ俺の部屋に来たのは、俺の寝室に置いてあるあいつの私物を回収す
るためだったらしい。まあいい、あいつをあのベッドに乗せることはもう2度とないだろ
う。いや、そもそもあいつを抱くことさえもうないだろう。あんな化け物みたいな女、誰
が抱くか、と康清は心の中で一人ごちた。片腕と片足が機械で、その機械の腕で俺を抱い
ていただと?
 康清はあの日の会話のことを今でもまざまざと思い出すことが出来た。付き合い始めて
8ヶ月近くが経っていた頃だ。ダウンタウンのレストランで一緒に食事をしていたとき、
打ち明けるように芹沢は言ったのだ。「実はわたし、3年前に事故に遭って……」それは

18 :No.04 鏡(お題:境界線) 3/5 ◇2LnoVeLzqY:09/03/09 00:09:36 ID:rhzClf8B
非常に大きな事故で、芹沢は命が助かったのが奇跡だったという。だがその事故で芹沢は
半身に大怪我を負い左の手足を失った。今の左手足は付け根から義肢なのだという。技術
が発達した現在では義肢の外見はほとんど生身と見分けがつかない。皮膚の質感と極めて
近い特殊な素材が用いられており埋め込まれた装置で手のひらの体温さえ再現可能である
という。現に康清も、そう言われるまで芹沢の左手足が義肢だとは一切気づかなかった。
いや、そう言われてもまだその話が本当かどうか康清には信じられなかった。俺はもう何
度も芹沢を抱いたではないか。あの左の手足は義肢だったというのか?
 これまでの人生で康清は間近でこれほど精巧な義肢を見たことはなかった。康清は驚い
て芹沢の左腕をまじまじと見つめ、同時に事故の話にいたく同情した。康清はその場で誰
もが思いつくような憐憫の言葉をいくつか掛け、けれどその日はどういうわけか芹沢を抱
く気が全く起きずに、まっすぐ家へ帰ってきてしまった。その晩ベッドに入ると康清は再
び芹沢の義肢の話を思い返した。俺の背中に回した腕や俺の腰に回されたあの脚、あれは
本物の手足でなく作り物だっただと? 考えれば考えるほど、どういうわけか康清は得体
の知れない怖気を感じた。そういえば、と康清は思う。芹沢はいつも露出の少ない長袖を
着ていた。行為に及ぶときも明かりを消すように強くせがんだ。康清はふいに芹沢の裸を
想像した。そしてその肩に、あるいはその長い脚の付け根にあるはずの手術跡を思い浮か
べた。人体と機械の繋ぎ目がありありと芹沢の身体に浮かんでいる様を思い浮かべた。だ
がもちろん、医療技術の発達した今では手術跡など目を凝らしたとしてもほとんどわから
ない。それでもその想像は、康清を捉えて離さなかった。
 次に芹沢を抱こうとしたとき、再び康清を、あの得体の知れない怖気が襲った。自分の
身体に伸ばされた芹沢の腕を、康清は急に、そして乱暴に跳ね除けた。「どうしたの……
?」裸の芹沢が驚いた顔で自分を見上げていた。康清は答えなかった。ただ暗い中で、必
死に芹沢の肩口の手術跡を探していた。結局その晩、康清は芹沢を抱かなかった。そして
再び抱くこともなかった。
 康清と芹沢の関係が悪化したのは、結局その夜からだった。その日以降康清は芹沢から
の連絡の一切を拒み続けた。不安になって会いに来た芹沢に康清は例になく冷たく当たっ
た。当然のように芹沢は怒りと共に帰ったが、康清の頭を支配していたのもまた怒りだっ
た。それは「義肢であることをどうして隠していた」という怒りだった。康清は自分でも
どうしてそんな怒りが沸くのかわからなかった。それがどこかおかしな怒りであることも
薄々気づいていた。だがその怒りが収まることはついになかった。結局、別れ話を切り出

19 :No.04 鏡(お題:境界線) 4/5 ◇2LnoVeLzqY:09/03/09 00:09:55 ID:rhzClf8B
して来たのは、芹沢の方だった。
 芹沢が寝室から膨らんだ紙袋を提げて出てきた。芹沢は露骨なまでに敵意を込めた視線
をノーマに向け、ノーマは芹沢に笑顔を返した。それを見た康清は、あれも哀れな女なの
かもしれない、と思った。そう思うと芹沢への怒りがいくぶん薄らいだ。もちろん、縁り
を戻すつもりはさらさらなかったが。康清は新たな女にある程度の目星をつけていた。も
ちろん、義肢などつけていない女だ。
「下まで送っていこうか」その台詞は自然と康清の口から出た。芹沢は黙って頷いた。2
人はノーマに送られながら部屋から出た。「いってらっしゃいませ」とノーマは笑顔で言
った。
 エレベーターに乗ると、ガラスの窓からは雑多なこの街の全体が見下ろせた。ゴミゴミ
とした住居区画の周りに太さの様々なパイプが毛細血管のように張り巡らされ、所々で灰
色の煙を青空に向かって噴き上げていた。道路には色の様々な車が並んで詰まっていた。
さながら何かの身体のようだ、そう康清は思った。ふと康清は、右隣に並んで立つ芹沢に
訊いた。
「何で俺と別れようと思った?」初め芹沢は無言だった。だがややあって、「あなたが変
な政治団体に関わっているから」そう芹沢は答えた。おいおい、と康清は思った。誰でも
見抜ける嘘だ。きっと芹沢は俺との関係を修復したがっている。けれど俺にその気はない。
俺が悪いのか? いいや違う、と康清は思う。だいいち、もこんな嘘が口から出るようで
は、俺たちの関係はもう修復できない。
 康清はそれらの言葉が喉元まで出掛かったがあえて飲み込んだ。エレベーターはぐんぐ
んと下降を続け、ついには街を這うパイプの一本一本がそれぞれ1つの生き物のように見
えるほど地上に近づいた。エレベーターを降りれば俺たちの関係はお仕舞いだろう。そう
思う康清の心には妙な清清しさがあった。
 やがてエレベーターが1階に着いた。康清はそのままエレベーターに残っても良かった
が芹沢につられて降りてしまった。後ろでエレベーターのドアが閉まるのがわかった。康
清がエレベーターを降りていたのに気がづくと、芹沢は驚いた顔をし、その後でしばらく
逡巡するようなそぶりを見せた後、意を決したように向き直ると、康清にこう訊いたのだ
った。
「……わたしって、気持ち悪い?」
 康清は、この質問に酷く苛立った。……こいつは何が言いたい? 康清は返す言葉が思

20 :No.04 鏡(お題:境界線) 5/5 ◇2LnoVeLzqY:09/03/09 00:10:11 ID:rhzClf8B
い浮かばず憤然とした感情だけが湧き上がっていた。こんなときノーマならどう返すのだ
ろうか? 何もかもが機械のノーマなら。それともその答えはデータベースにありません
とでも返すのだろうか? そう、さっきのシーモアの質問と同じように。
「……自分で鏡見てみろよ」
 康清は躊躇なく答えた。それを訊いた途端、芹沢は一瞬表情を歪め、けれどすぐに踵を
返すと康清の元から足早に去っていった。芹沢は一度も振り返らなかった。康清は何の感
慨もなくその背中を見つめていた。やがてエレベーターが降りてきた。それに乗って自分
の部屋に戻り、玄関を開けた。
 するとノーマが康清を、普段と全く変わらない笑顔で、誰よりも暖かく出迎えてくれる
のだった。
「お帰りなさいませ、康清様」


 おしまい



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