【 絵描きたちの夜 】
◆MnsXw5A73Q




12 :No.03 絵描きたちの夜」1/8 ◇MnsXw5A73Q:09/03/28 23:53:06 ID:5NcmG5Fv
 扉は音も立てずにあっけなく開いてしまった。
いつもはあんなに重い扉が、今はずっと軽く感じられた。
全ては自分の甘えのせいだったのかも知れない、と改めて思ったが、
だからどうなるというわけでもない。それに気付いたとしても僕の
気持ちは果たして簡単には変わらないだろう。
だから僕は夜の美術室にやって来て、扉を開けたのだ。
 そして、月光に照らされた教室の中に人影を見つけたのだ。

13 :No.03 絵描きたちの夜」 2/8 ◇MnsXw5A73Q:09/03/28 23:53:29 ID:5NcmG5Fv
 時刻は夜の八時を回っていた。僕はカバンに必要最低限のものだけを詰め、
家を出た。母親はどこへ行くのか聞こうとしたのだろう、台所から微かに声が
聞こえた気がしたが、僕は聞こえない振りをしてそれに答えなかった。
その代わり、学校へ向け自転車を走らせながら母親の携帯電話に
「学校に忘れ物を取りに行ってきます」とだけ打ったメールを送信した。
 普段でも十分程度しかかからない道のりをさらに飛ばして学校へと到着する。
見上げた夜の学校は僕の心を落ち着かせた。それに対し、昼の学校はただただ
僕の心をかき乱し続けていた。廊下の足音も、教室の喧騒も、美術室の談笑も、
僕にはひどく気持ちが悪かった。気付けば全てが煩わしくなっていた。
それなのに、僕は毎日のようにクラスメートと迫る試験に愚痴を言い、
食堂では今日何を食べようかと悩み、空笑いを繰り返した。
 思えば、それは一年後に迫った受験が不安であっただけなのかも知れない。
あるいは、描いても描いても上達しない自分の絵に苛立っていたのかも知れない。
どちらにしろ原因は自分の外側にあるようで、いつも自分自身でしかなかった。
だからこそ余計に僕は陰鬱な気分へと沈んでいった。
 僕は子供の頃から単純に絵を描くことが好きだった。クレヨンや鉛筆、
絵の具はもちろん、点描画や墨絵まで何でも自分でやってみた。
だから高校に入学するとすぐに美術部に入部したのだ。しかし、
そのほとんどが幽霊部員だったり、あるいは美術室を雑談の場としか
利用しない部員の中に浸るにつれて、僕は絵の描き方を徐々に見失ってしまった。
それでも僕はそれを払拭するように家に帰ってからも無我夢中で絵を
描き続けたが、顧問もほとんど現れないその部活では誰にも絵の上達法など
教わることもできず、迷走することが多くなった。
 次第に放課後の部活動に出席することも少なくなり、とうとう僕も
幽霊部員の仲間入りを果たした。今思えば、幽霊部員の中には僕と同じように
部活動へ来なくなった者もいたのかも知れない。

14 :No.03 絵描きたちの夜」 3/8 ◇MnsXw5A73Q:09/03/28 23:53:51 ID:5NcmG5Fv
 始めは、ふと、美術室のあの絵の具の匂いに囲まれた雰囲気が
懐かしくなっただけだった。それで夜の学校に忍び込み、ちょっとでもいい、
何か刺激されるものがあるかも知れないと感じて、それで僕は
誰もいなくなった美術室で絵を描こうと思って家を飛び出したはずだったのだが。
「…………!?」
 反射的に扉を閉めそうになったのを堪える。どうやら、その人影は
僕に気付かなかったらしい。暗闇に慣れ始めた目をこらしてよく見ると、
人影は女の子のようだった。その女の子は真剣にキャンパスに向かっていた。
電気もつけずに、ただ黙々と何かを描いていることは分かった。
 筆先は滑らかに滑り、色を重ねている。
 ……油絵? 筆の運び方や色の塗り方から何となくそう思った。
もちろん遠目であったし、何せ当てになる明かりが月の光しかなかっため
確信は得られなかったけれど。
 僕は、どうしようかとその場で少しの間迷った。恐らく彼女も、
見たことはないがこの学校の生徒で、もしかしたら僕と同じように
夜の美術室に何らかの期待をもって、それで自分の作品の製作に
励んでいるのかも知れない。しばらくの間僕は部活動に参加していなかったし、
彼女が知らない間に入部した新しい美術部の部員という可能性だってある。
それならばあれだけ真剣に取り組んでいる作業を邪魔をするのは酷というものだろう。
このまま退散しようか、とも思った。
 しかし、学校へと来る道中、見上げた空にはぽっかりと満月が浮かんでいたのだ。
 何故だか僕は今日の日にどうしても何か絵を描き始めたいと強く思ったのだ。

15 :No.03 絵描きたちの夜」 4/8 ◇MnsXw5A73Q:09/03/28 23:54:13 ID:5NcmG5Fv
「……あの」
 彼女の横顔に声をかける。すると、突然の呼びかけにも彼女は驚いた様子もなく、
ゆっくりとこちらに顔を向けた。先ほどまで彼女が熱心に描いていた絵に
釘付けだった視線が僕に向けられていることに少し緊張した。
とても真っ直ぐな瞳だった。
 僕は彼女が何か言うかと思って待ってみたが、夜の美術室には
静寂が広がるばかりだった。仕方なく僕は言葉を繋げる。
「何、してるんですか」
 年上かは分からなかったが、なんとなく敬語になってしまう。
それにその質問はある意味では分かりきっている質問だっただろう。
でも、それ以外にこんな訳の分からない状況で彼女に何が言えたのだろうか?
それに電気もつけない部屋の中では、油絵どころか彼女が本当に絵を
描いていたのかも、実は百パーセントの自信だってなかったのだから。
 問いかけても彼女は口を開かなかった。代わりに、再びキャンパスに
向き直って筆を動かし始めた。僕はそれを「見ての通りだ」という返答だと
勝手に解釈し、恐る恐る近寄ってその絵を覗き込んだ。
 予想通り、それは油絵のようだった。それもちょうど、
この美術室の窓から見える夜空と木々の様子が描かれているものだった。
黒色と青色が深く何重にも塗り重ねられた夜空の上に、小さく、
しかし力強く輝く星が散りばめられていて、その下に並んでいる木々は
逆にひっそりと眠っているような感じがした。幹の茶色の質感も、
月明かりに照らされた暗緑色の葉っぱも、一体どれだけの時間をかければ
ここまで深みのある色が出せるのか想像もつかなかった。それなのに
枝葉や草花はとても繊細にキャンパスの中で息を潜めていた。
僕は今までにもたくさんの絵を見てきたが、その絵はそのどれにもなかった
不思議な雰囲気を持ち合わせていた。

16 :No.03 絵描きたちの夜」 5/8 ◇MnsXw5A73Q:09/03/28 23:54:38 ID:5NcmG5Fv
 僕が絵に見入っている間も彼女は手を休めることはなかった。
今は窓から見える中でも一番大きなイチョウの木に取り掛かっている。
時には大胆に、時には優しいタッチで、その大木は彩られていった。
「うまいですね」
「……ありがとう」
 答えを期待していたわけではなかったので、その小さな声をうっかり聞き逃すところだった。
「毎晩、ここで絵を描いてるの」
 それが先ほどの「何してるんですか」という自分の質問に対する答えだと
言うことに気付くのに、少し時間がかかった。
「美術部の部員なんですか?」
「そう」
「実は僕もそうなんです。と言っても幽霊部員なんですけど」
「……私も、そう」
 なるほど、それなら彼女の顔を見たことがないのも納得がいく。
お互いに幽霊部員では放課後の美術室で会うことがないのは当たり前だ。
となると、もうひとつ疑問が湧いてくる。
「えっと……どうして夜の美術室なんかで絵を描いてるんですか?」
 今度は答えがなかった。
 そうこうしているうちに、彼女の描くイチョウの木は立派な佇まいで
絵の中心にそびえるようになった。現実にも太く、たくましいその大木は、
彼女の絵の中ではさらにその存在感を増しているかのように感じられた。

17 :No.03 絵描きたちの夜」 6/8 ◇MnsXw5A73Q:09/03/28 23:55:01 ID:5NcmG5Fv
 僕は彼女との会話を諦め、仕方なく、自分のカバンから鉛筆と
デッサン用のノートを取り出した。本当のところ電気くらいはつけたかったが、
彼女には彼女なりの電気をつけない理由があるのかも知れない。
そう思って先客の意思を尊重することにし、僕は彼女の近くの机の上で
一番月明かりに照らされている場所を探し、試しに彼女の見ているのと同じ
窓に映る風景をサラサラと描いてみた。数分程度である程度の形にしたものの、
どうしても彼女の油絵と比べると見劣りしてしまい、僕は一度鉛筆を置いた。
ぐっと背伸びをし、次にホームルームの教室を思い出しながら描いてみた。
黒板の隅に書かれた日直の名前、ロッカーの上の花瓶と白い花、教壇、乱雑に並ぶ机……。
 そこで彼女の視線に気付いた。いつの間にか手は止まり、さっきと
同じような瞳でじっとこちらを見つめていた。いや、正しくは僕の描いたデッサンを、だ。
「……夜の学校の絵を描きたかったの」
 彼女はぽつりとそう言った。今度はすぐに、僕がさっき投げかけた
疑問の対する回答だと分かる。しかし、理解はできなかった。

18 :No.03 絵描きたちの夜」 7/8 ◇MnsXw5A73Q:09/03/28 23:55:23 ID:5NcmG5Fv
「え……いや、それなら、昼の学校でも描けるんじゃないですか? 夜の教室くらい想像して描けば……」
「今まで模写ばかりしていたから」
「……?」
 やはり言っている意味がよく分からなかった。しかし次の瞬間、
電撃が走った。もう一度彼女のキャンパスまで近寄り、描いている風景と見比べてみる。
今度は"彼女の視点に合わせて"。
「全く一緒……」
 風景画を描くと言っても、普通はその人の絵の描き方の癖や、
あるいは適当なところを自分で補完することがあってもおかしくないのに、
彼女の絵は目に見える風景まったくそのものだった。模写どころの話ではない、
改めて見ればそれは写真のようにすら見えた。
 これだけの技術があって、彼女は"今目に見えている作品しか描けない"と言う。
 途端に、僕は何故だかおかしくなってしまった。彼女が不思議そうに僕を
見つめているのも分かっていたが、それでも僕は笑いを堪えることができなかった。
 彼女のあまりにも純粋な才能と思考に、僕は感動し、同時に自分が今まで
悩みながら考えていた色々がどうでもよいことな気がしてしょうがなくなってしまった。
 本当に久しぶりに、心の底から笑えた気がした。

19 :No.03 絵描きたちの夜」 8/8 ◇MnsXw5A73Q:09/03/28 23:55:44 ID:5NcmG5Fv
 僕と彼女の夜の写生会はそれから二ヶ月ほど続いた。彼女は結局いつも言葉少なに
僕の言葉に反応するだけで、基本的にはキャンパスとにらめっこをしているのが常だった。
 僕は彼女の油絵の技術を少しずつ盗んでいった。彼女は僕に何かを教えようとは
しなかったが、僕は勝手に彼女の筆の運び方や色の選び方を見て真似た。
もちろん、彼女には秘密で。
 代わりにといってはなんだが、僕はあれから少しして、彼女にひとつだけアドバイスをした。
「何か、今目にしてないものも描いてみたらどうかな?」
「……何を?」
「うーん、そうだな……。……夢、とかはどうかな。将来の夢。もちろん、
もっと近い未来の夢でもいいし、これからそうなってほしいことでもいい」
「……夢」
「そう。そういうものを想像して描くのもいいと思うんだ。
今までみたいに今見える何かを真似しているばっかりじゃなくてさ」
 そう言うと彼女はその時だけ筆を置き、考えることに真剣になった。目を瞑って、
うーんとまるで唸るようにして、たっぷり三十分後にやっと彼女は筆をとった。
 今、彼女の絵は少しずつ完成に近づいている。絵の中のその場所は昼の美術室だった。
その明るい教室の中で、いつも通り無表情な彼女の横、
僕は笑いながら絵を描いているように見えた。 了



BACK−複製される幸せな日々(きんたま編)◆DidrEQGz4w  |  INDEXへ  |  NEXT−コピーに関する群像◆DH2T5p0ggI