【 帰路 】
◆LBPyCcG946




11 :No.03 帰路 1/3 ◇LBPyCcG946:09/04/13 00:16:23 ID:/4NhKVeJ
 帰るべき家があれば、肌をなぞる寒さなんて無いに等しい。暖炉はいつだってすぐ近くにあるのだから、薪
をくべて火をつけよう。心地よい音楽も、鼻をくすぐって仕方のないスープの匂いも、たちまち目の前に広が
るはず。キロも、そう確信する一人だった。
 木々達の住処は見渡す限り暗闇で、キロの行く手には口を開けて待つ黒の塊。存在感が無く、だけど猛烈に
恐ろしい。何人の旅人がこれにやられただろう。だけどキロにそれは効かなかった。キロは盲目、光には元か
ら嫌われている。
「お嬢さん、お嬢さん」
 すき通るような軽やかな声。ガマガエルにはおよそ似つかわしくないであろう、万雷の拍手に値する美声だ
った。
「お嬢さん、どこへ行かれるのですか?」
 キロは木から決して手を離さず、声のする方向へと振り向いた。向きは割と当たっていたが、そのカエルは
キロの目線のかなり下で、顎の袋を膨らませたり萎ませたりしていて、体勢だけを見ると謝っているようにも
見えた。
「お家へ帰るの」
 素っ気無くそう答えるキロには何も見えておらず、しかし何もかもが見えていた。
「よしなさい。もうじき本当の闇がくる。歓迎の宴の準備が出来ています。どうぞ、こちらへ」
 カエルは片手を優雅に広げて西を指した。もちろんキロにそれは見えていないが、カエル的人間式の礼儀だ
った。
「嫌よ。お家へ帰るの」
 カエルはゲコゲコと鳴いた。果たしてその音を美しいと思う人がいるだろうか、いやいないだろう。
 キロは木を支えにして少しづつ、だけど確実に一歩一歩、家があるはずの方向へと歩く。その足取りはたど
たどしく、また弱々しく、カエルを酷く憂鬱にさせた。
 キロが三歩進めば、カエルは両足を使って一度跳ね追いつく。カエルはその小さな頭でひたすら一生懸命に
考えていた。キロが疲れてへたりこんだら、何て声をかけようか。あるいは何が自分に出来るだろうかと。そ
れは恋にも良く似ていたが、もっと淡く、焚き火の周りの火の粉のように瞬いていた。
 だけどカエルの優しい心は、再び日の目を見る事は無かった。キロは決してめげず、何歩も何歩も進んだ。
繰り返しの単純な動作で感情は揺さぶられる、砂時計の中には煌く砂がちりばめられ、だけど確実に時は刻ま
れていった。
 やがて痺れを切らしたカエルが声をかけようとしたのとほぼ同時に、本当の闇が訪れた。
「寒さをもたらそう、死と、飢えも。それからそれからそれから、それからを断ち切る刃もだ」

12 :No.03 帰路 2/3 ◇LBPyCcG946:09/04/13 00:16:47 ID:/4NhKVeJ
 本当の闇の声は低く轟き、不可視は不安の象徴だった。
 カエルはどうしたって、その世界の異物に勝てない事は分かっていた。諦めが泥雨に混ざった感情を押し殺
して、行く末を見守る事しか出来ない自分を軽蔑していた。
「あなたは誰?」
 キロの開いていない純真無垢な瞳が本当の闇を捉えた。決して離さないだろう。
「爪だ。いつも側にあるが時おり人を傷つける。肉だ。糧となるのに自分のは決して渡したくない。穴だ。落
ちたら二度とは出てこれないだろう。血だ。溺れて死ぬ事もあるが、最良の友になる。そして心だ。決して見
透かせはしない、させない」
 それは本当の闇なりの自己紹介と言えた。声はキロの鼓膜をノックして、その後強引に開くと、なだれ込む
ようにしてキロの心へと入ってきた。それまで暖炉の前で寝ていた白眼の化け物が目を覚まし、キロの頭の中
で喚き散らし吼えた。
 カエルは確かに見てしまった。キロの足が震えているのを、ボロボロの布切れの合間に見える青ざめた顔を。
真実の否定は存在の否定だ。カエルは水色を浮かべながら、はいずり出てくるような言葉を強引に抑えた。
「さあ、いざよいの地獄へ、いずれ散る宿命へ、さあ、さあ、朱で染めた牢屋へ、さあ、醜悪な顔を見せて堕
ちよう。灯火を消して自分を知ろう、さあ」
 本当の闇は虚ろな手でキロを招いた。キロは木から手を離し、吸い込まれるよう、足跡を作った。そのまま
消えてしまっていただろう。もしもカエルに一握りの勇気が、無ければ。
「立ち去れ」
 カエルは再び言葉を取り戻した。そしてその言葉はとても優秀で、キロの頭の中に入るとたちまち恐怖を駆
逐した。美しい声だった。曇り一つ無い空を見るようだった。澄み切った空気を駆ける一羽の燕だった。
 本当の闇はもういなかった。カエルのたった一言が、キロの内部に眩い光をもたらしたからだ。
「お嬢さん、私と結婚してください。この森はあなたを迎えます」
 カエルは本当はもう枯れそうな声を、衰弱した心を強い力で絞ってそう言った。一点の躊躇いもそこには無
かった。キロは首を振って答える。
「お家へ帰るの」
 カエルはすぐ様その言葉に反応し、まくし立てた。

13 :No.03 帰路 3/3 ◇LBPyCcG946:09/04/13 00:17:12 ID:/4NhKVeJ
「キロ、君は捨てられたんだ。目が見えないのを良い事に、君の両親は君を森に置き去りにした。どうしてか
分かるかい? 君が望まれていないからだよ。目が見えないから働けないんだ。君は両親にとっては必要のな
い存在なんだ。でも、僕は違う。君を心から必要としている。覚えているかい? 僕がまだオタマジャクシだ
った頃、君は水溜りの中から僕を助けてくれたんだ。目の見えない君は僕の小さな声に耳を傾けてくれたんだ。
僕は君の優しさを一番理解している。そして僕はこの森の王様になった。そして君と結婚する。だから、お家
へは帰らなくて良いんだよ」
 言葉を紡げば紡ぐ程、カエルの声は太く、醜くなっていった。息も絶え絶えになりながら言葉が終わる頃に
は、この世の物とは思えないような、奇怪で歪な声が木々の合間に轟いていた。しかしキロは、決してそれに
怯える事は無かった。先ほど目の前に現れた本当の闇に比べれば、とてつもなく小さな凶器だった。
「嘘をついてたのね」
 キロは木漏れ日のような落ち着いた口調でそう述べる。
「何を言う」
 カエルはあるはずの無い牙を剥いてキロを見つめる。
「私の名前、知ってた」
「それが、どうした」
 カエルは最早、カエルの形を保っているのがやっとだった。渦巻く猜疑心に任せて、キロの華奢な身体を潰
しそうになっていた。きっと一秒もかからない、あっという間の出来事になるだろう。
「私、お家へ帰るの」
 そう言ったキロの、臆面が少しも無い満開の笑顔は、カエルの衝動を引き起こすのに十分な威力を発揮した。
カエルの影がキロにかかる、無限にほぼ等しい力が空を切る。森がざわめいて鳥が鳴く。これまで世界がひた
すらに守っていた規律が、矮小な両生類によって無残に破られていく。
 その瞬間に、本当の闇が姿を現した。ただ無言でカエルを丸呑みして、ただ無言で去って行った。
 そしてキロは、最初からまるで何もなかったかのように歩き出した。王になった悲しいカエルも、心を食べ
る本当の闇も、キロにとってはまるで意味の無い物だった。
 キロには帰る家があるのだ。それで良しとしよう。





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