【 人は穢を食べて育つ 】
◆ML.K5wMH76




10 :No.03 人は穢を食べて育つ 1/6 ◇ML.K5wMH76:09/06/07 20:58:07 ID:ZNSsOAu7
 早くその穴から何か出てこないかと、僕はそればかり考えている。
 心が胸の奥に存在するものだとしたら、その穴も胸の奥に存在していた。ぽっかりと口を開けている穴は、
まるで夜の水たまりみたいにただそこにあった。その中には姿の見えない何かが住んでいて、僕がゴミみたいな
気持ちを穴に投げ入れるたびに、それを食べてしまう。その都度、僕の胸はざわめいた。
 いずれ何かがこの穴から出てくるだろう。けれど何が出てくるのか、僕には皆目検討もつかない。
 
 ■ ■ ■
 
 中学生は、慣れてしまえば楽だった。周りの環境が変わったぐらいで、やってることは小学校の延長だったし、
特に目立ったことをしなければ平凡に過ごしていける。
 でもそれが出来ていない人間もいた。「例えば誰?」と尋ねられたら、僕は真っ先に丹下という女子を挙げる
だろう。
 僕が見る限り、丹下は地味で普通な奴だ。強いて言うなら、胸は地味じゃない。でも丹下は僕たち男子はもち
ろんのこと、女子からもあまり良く思われていない。なぜって、可愛げが無いからだ。いつもむっつりしていて、
一人でいるところしか見たことがない。からかわれても基本は無視だ。そのときの態度だって、まるで「あんた
たちみたいな子供に付き合ってる暇は無いの」とでも言わんばかりのものなので、丹下の評判は今でも順調に
悪くなっている。
 悪い評判に尾ひれ背びれは必ずつく。丹下のそれだって、最初はからかってる奴を先生にチクってるという
ものだったのに、今では先生とデキてるからひいきされているというものに成長した。けれど丹下は相変わらず
むっつりしていて、無視を決め込んでいる。
 さっきから友人たちは熱心に、先生とセックスしてるときの丹下の胸の揺れ、歪みについて語っている。
そんな彼らに相槌をうちながら、僕は彼女を見た。次の授業の準備を黙々と行っているその姿に、もっと上手く
やれよと言ってやりたい。それが通じたのか、丹下は僕の方をちらりと見たかと思うと、顔をしかめてすぐに
視線を戻した。やっぱり丹下は可愛げが無いと思う。
 
 ■ ■ ■
 
 母親がまた電話に向かって怒鳴っている。
 僕は先生に弄られて形を変える丹下の胸を、隣に住むまお姉の胸に置き換えていた。果てて萎んだ後に残った
虚しさを、学校で溜めた分のゴミみたいな気持ちと一緒に穴の中に投げ入れた。

11 :No.03 人は穢を食べて育つ 2/6 ◇ML.K5wMH76:09/06/07 20:58:33 ID:ZNSsOAu7
 電話の相手は聞かなくても分かる。内容も、聞かなくても分かる。父親の帰りが、今日もまた遅いんだ。
 最後に丹下に対する不満を穴の中に入れて、僕はカバンを手にした。塾へ行くにはまだ早いけれど、これ以上
家に居たらまた母親のグチに付き合うことになる。
 まだ怒鳴っている母親の背中に「いってくる」とだけ告げて、僕は家を出る。ドアが閉まる前にキィキィした
声で何か言われたような気がしたけれど、聞こえなかったことにした。さっき空っぽになったはずのゴミみたい
な気持ちが、また散らばっている。苛立ちとか、煩わしさとか、そんなのをまた穴の中に投げた。
 歩き出そうとしたとき、タイミングよく隣の家のドアが開いた。中から顔を出したのは、さっきまで僕の頭の
中で胸を散々弄られていたまお姉だった。
「やっぱり健人だ」
「あれ、なんで出たって知ってんの?」
「ドアの音したから。このマンション、結構廊下に響くんだよ。おばさんだったらもっと静かに閉めるしね。
これから塾?」
「うん。でもまだ時間あるから、本屋行こうかなって」
「あ、じゃあさ、ちょっと食べてかない? パウンドケーキ焼いたんだ」
「僕、また試食係?」
「だって、自信ないんだもん」
 そう言いながら、まお姉は手招きして家の中に戻っていった。僕も後をついて中に入る。部屋は甘い香りで
包まれていて、きつね色したパウンドケーキがテーブルの上に二本置かれていた。
 まお姉は隣に住んでいる僕の幼馴染だ。昔はよく遊んでいたけれど、彼女が大学に入ってからはこうやって
彼氏の為に作ったお菓子の試食を頼まれるぐらいしか、交流が無い。
「ね、どう? ちゃんと甘い? ココアの味する?」
 切り分けてくれたパウンドケーキは、プレーンとココアの生地がマーブルになったものだった。焼き立てなの
かほんのり温かく、出してくれたコーヒーとよく合う。
「うん、まずくはないよ」
「もう、健人は相変わらず素直じゃないなぁ」
 そう言って、まお姉もパウンドケーキを口に含んだ。膨らんだほっぺや、もごもごと動く唇がすごく可愛いと
思う。まだ味が気になるのか、眉間にシワを寄せて「うーん……」って唸るところとか、頭を撫でて「おいしい
よ」って言ってあげたくなる。けれどそれは僕がやるんじゃ意味が無い。まお姉の彼氏がやって、初めて意味が
生まれるのだ。
 僕はパウンドケーキを噛む。何度も何度も顎を上下させ、奥歯ですり潰すように。

12 :No.03 人は穢を食べて育つ 3/6 ◇ML.K5wMH76:09/06/07 20:58:57 ID:ZNSsOAu7
 胸に沸き起こるもやもやした感情すら、潰すように。
 ねぇ、まお姉知ってる? 僕さっき、まお姉でオナニーしたんだ。
 口の中のぐちゃぐちゃになったパウンドケーキと一緒に、その言葉を飲み込んだ。僕のぐちゃぐちゃになった
気持ちは、穴の中の何かが飲み込んだ。
 飲み込んだ。投げ入れていないのに。
「ごちそうさま。本屋行くから、もう行く」
 カップに入っていたコーヒーをそのままに立ち上がる。まお姉はぽかんとした顔をしていた。出されたものを
残したのは初めてだったからだ。きっとそうに違いない。
 
 
 地面を軽く蹴ると、ブランコは小さく揺れた。公園には僕しか居なくて、錆びた軋む音だけが鳴っている。
ここであと二時間も時間を潰さないといけないことを考えると、大人しく本屋に行っておけばよかったと思って
しまう。けれど腰を上げることは出来なかった。まるで揺れるブランコと一体になってしまったみたいに、僕の
体は動かない。
 公園の前を、色んな人が通りかかった。サラリーマンだったり、買い物袋を提げた主婦だったり、ランドセル
を背負った小学生なんかもいた。高校生も居れば大学生もいる。でもその中にまお姉の姿は無い。当たり前だ。
まお姉はきっとあの後、彼氏とのデートに出かけたはずだ。いつもよりオシャレな服を着て、化粧をして、髪を
巻いて、あのパウンドケーキを持って。
 胸がざわめいた。穴の中の何かが、外に這い出ようとしているみたいだった。僕が投げ入れるものだけじゃ
飽き足らず、僕自身を食べようとしているのかもしれない。
 けれど僕は食べられることもなく、ふくらはぎの辺りにぶつかるブランコの衝撃を感じていた。腿の上に乗せ
ていたカバンは、足元に落ちている。公園の入口から、丹下が眉を寄せてこちらを見つめていた。
「……何してるの? 家出?」
 しばらくして丹下が口を開いた。僕はそれに突き動かされるように、まずカバンを拾った。それから何を言お
うか考えるより先に、言った。
「違う……サボり」
 丹下は「ふーん」と興味なさそうに言って、それから手にしていたスーパーの袋を持ち替える。僕は私服の
丹下を初めて見て、制服のときよりも地味じゃないなとか、そんなことを考えていた。
「なんか死にそうな顔してたから声かけたけど、サボりだったら別にいいや」
「死にそうってなんだよ」

13 :No.03 人は穢を食べて育つ 4/6 ◇ML.K5wMH76:09/06/07 20:59:19 ID:ZNSsOAu7
「なんだよって、そのまま。小杉、これから自殺でもしそうな顔してたよ」
 むっつりというよりは無表情のまま、丹下は淡々と話す。可愛げはやっぱり無い。先ほどのざわめきとは違う
揺らぎが、体全体に伝わっていく。
「ちょっと嫌なことあっただけ。でも自殺はしねーよ」
 搾り出すようにそれを伝えると、丹下は「あっそう」と、やっぱり興味なさそうに言って、通りの流れに
戻ろうとした。僕はそのとき一人で公園に残るのがなぜだか嫌でたまらなくて、丹下の後に続いていた。
 
 ■ ■ ■
 
 電話が床に転がっている。割れたガラスや陶器は散らばっていた。僕は足に破片が刺さらないよう、慎重に
その間を歩く。泣いている母親に声をかけずに家を出た。
 携帯ですぐに電話する。コール音は何度も鳴るのに、父親の声にはならなかった。
 僕は家のドアに背中を預けながら、マンションの廊下にしゃがみこんだ。穴の前にはゴミみたいな気持ちが
山積みになっている。中に投げ入れて、何かに食べさせて、すっきりしたかった。けれどそれを行うには、
あまりに量が多すぎた。
 まお姉の家のドアがゆっくりと開く。彼女は様子を伺うようにドアの影から顔を覗かせた。
「健人、さっき凄い音してたけど、どうしたの?」
「別に……母さんがちょっと盛大に食器落としただけ」
「そうなの? ならいいけど……あんたはそこで何してんの?」
「家の床が針山みたいになってるから、避難してる」
「あー、そっかぁ。じゃあ、うち来る? 今日はクッキー焼いたんだ」
 昨日のことなんかちっとも気にしていない風で、まお姉はやっぱり手招きした。僕は後をついて中に入る。
壁紙に染み込んでしまっているんじゃないかと思うぐらい、部屋は甘すぎる香りが充満している。きっとまお姉
は鼻が利かなくなってしまったんだ。
 テーブルの上には色んな形をしたクッキーが入っている皿があった。その隣には薄ピンクのラッピング袋に
入った、いかにもな包みが置かれている。まお姉はいつものようにコーヒーを入れてくれた。僕はクッキーを
一枚かじる。じゃりじゃりとした食感が舌の上に広がった。甘い匂いはするけれど、甘い味はしなかった。まお
姉はいつものように「どう?」と聞いてくる。僕は二口目を食べた。クッキーは、やっぱり甘い匂いだけした。
「おいしいよ」
 口が勝手に動いた。手がカップを持ち上げて、僕にコーヒーを飲ませる。まお姉は満足そうに笑った。

14 :No.03 人は穢を食べて育つ 5/6 ◇ML.K5wMH76:09/06/07 20:59:39 ID:ZNSsOAu7
それから「今回のはちょっと自信作だったんだ」と、自慢げに言う。二枚目のクッキーを噛んだ。胃に落とした
はずのそれは形を変えて胸に昇ってくる。ゴミみたいな……いいや、ゴミが増えていく。
「……彼氏にあげるの?」
「え、もー。いまさら聞かないでよ、そういうこと」
 まお姉の頬がほんの少し赤くなる。もう何度もそんな姿を見てきたのに、僕の胸は今までにないぐらいざわめ
いた。夜の水たまりみたいな穴が、どんどん広がっていく。中の何かが、ゆっくりと這っている。
 早くその穴から何か出てこないか。
 僕は一体、何を待っているっていうんだ。
「前から聞きたかったんだけど」
「うん、何?」
「まお姉ってさ……」
 彼女は無邪気な顔で僕を見つめている。その頬が先ほどのように赤く染まることはなかった。
 穴の中から何かが出てくる。出てこないように飲み込んでしまいたかった。けれどそれは餌に見向きもせず、
僕がそうするより早く喉を通った。
「まお姉って、うちの親父のどこが良くて付き合ってるの?」
 出きったそれは甘い香りに溶けて消えた。まお姉の表情も消えた。僕を見る彼女の視線はいつもとは違う、
まるで邪魔者でも見るようなものになっている。
「……健人、いつから知ってたの?」
「覚えてない。まお姉が親父のこと好きになったみたいに、いつの間にかだと思う」
 頭が妙に冴えている。ぽっかり口を空けた穴の奥では、また違う何かがうごめいている気がした。僕はそこに
散らばったゴミを投げ入れていく。出てこないように次々と、何でも投げた。投げるものが無くなったら、僕は
席を立ってまお姉の家を飛び出した。まお姉は追いかけてこない。
 彼女がどんな顔をしていたのか、僕は思い出せなかった。
 
 
 公園にはやっぱり誰も居なかった。何で居ないんだよと思いながら、僕は入口のポールを蹴飛ばした。僕は
何を望んでここに来たのだろう。
 足の疼きが胸に上ってきて、激しさを増す。相変わらず穴の奥の何かはうごめいていて、餌でもねだっている
ようだった。このまま何も与えなければ、それは僕を食べてくれるのだろうか。
「ねえ、なんで小杉ってここに居ると死にそうな顔してるの?」

15 :No.03 人は穢を食べて育つ 6/6 ◇ML.K5wMH76:09/06/07 20:59:59 ID:ZNSsOAu7
 背中に刺さった言葉に振り返る。今日は本屋の袋を抱えた丹下がそこに居た。
 何か言わなければと思う。でも言葉は出てこなくて、僕は空気を求める魚のように口をぱくぱくさせた。
「今日もちょっと嫌なことあったの?」
「今日は……今日は、ちょっとじゃ……なかった」
 丹下は一瞬きょとんとした顔をして、それから「ふぅん」と呟いた。僕の横を通り、彼女は公園の中に入って
いく。それからベンチに腰掛けると「なんでまだそこに居るの?」と言いたげな視線を僕に向けた。
 隣に居る丹下に「どうしたの?」と尋ねられたから、僕は昨日からのことを話した。「それで?」と促されて、
自分自身がすごく嫌だと言った。心の穴の何かを話しても丹下は笑わずに、その代わり別な表情も見せずに聞い
ている。一通り僕が話し終えて少しの沈黙が流れたあと、彼女はたった一言「変なの」と口にした。
「なんで小杉がそこまで我慢してるの?」
「え?」
「我慢して辛くなるなら、言いたいこと言っちゃえば」
「言っちゃえばって……そんなの、単なるわがままだろ」
「わがままって子供の特権じゃん。限度はあるけど、そんな死にそうな顔するよりはよっぽどマシだと思うよ」
 淡々と話す彼女に可愛げはちっとも無い。けれど、みんなが言うほど嫌な気もしなかった。
 丹下は公園の時計を見て、それから空を見たあと「そろそろ帰る」と立ち上がった。僕もつられて立ち上がり、
二人で公園を出る。通りで別れる前に、僕は以前から気になってることを尋ねてみた。
「お前と先生がデキてるってマジなの?」
 丹下は心底呆れた顔をして、それから実に心のこもった声で僕に「バカ」と言った。
 
 ■ ■ ■
 
 僕の周りは実に平凡だった。ここ最近、父親は早く帰ってくるし、母親は電話に向かって怒鳴らなくなった。
まお姉は最近見かけていない。おばさんは一人暮らしを始めたと言っていたけど、引越し先は聞いていない。
 丹下は相変わらずの態度で評判が悪い。でも玄関で会ったら挨拶を返すぐらいは、してくれるようになった。
 僕の心のどこかには相変わらず穴が開いていて、そこにゴミみたいな感情を投げ入れると、奥ではやっぱり何
かがそれを食べた。でも当分はその何かが出てくることは無いだろう。そうなる前に、言いたいことを言ってみ
る、ということを教えてもらったから。でも機会がなくて、未だ実行できていない。
 穴に怯みと恥を投げ入れながら、僕は近いうち丹下に言いたいことを言ってみようかと、密かに計画している。
   【終】



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