【 オンステージ 】
◆Loli.L85P2




30 :No.11 オンステージ 1/5 ◇Loli.L85P2:09/06/14 23:19:10 ID:nMOdQxLz
「かぐやが月に落ちるまでいたら?」と言う俺の誘いを巧妙に断ったマイカには、きっと
何を言っても無駄だったろう。もう帰らなきゃと言わずにもう帰ったらと言うマイカに対
して、いつも同じ面しか向けられない俺の滑稽さは、ある意味で月にとてもよく似ている。
それならこの部室が太陽系だとして、マイカは? さあ、よくわからない。そもそも前提
が間違ってるのかもしれなくて、太陽系にするには太陽が足りず、日没時刻はとうに過ぎ
ていた。地球はある。けれど、理科室を追い出された小道具役の地球儀は、隅の方で丸く
縮こまっている。
 マイカは制服の小さくふくらんだ胸のポケットから、まっさらな2本の指で、桃色の携
帯を慎重に取り出した。かぐやが月に落ちる時間を訊いてくれるのかなんて俺の中の人の
期待は、もちろんマイカに届くわけない。マイカに現在時刻を知らせただけの季節外れの
桃色は胸ポケットに再び戻され、マイカのそれを、またちょっとだけふくらませる。
「マイカ、いま何時?」
「……自分の見たら?」
 俺の質問にすげなく返すマイカ。まったく、取り付く島もない。なさすぎる。島の定義
は海洋に囲まれて云々。そして月には水がない。マイカは長机の端に畳んで置いてあった
ベージュのカーディガンを広げて、立ったまま毛玉をひとつひとつ外しはじめた。
 今夜、かぐやが月に落ちる。2007年に打ち上げられたJAXAの月周回衛星かぐや。
主要任務はアポロの積み残し、月面の地形・地質調査。2年の任務を終えたそれは、もち
ろん地球に戻る体力など持つわけもなく、待っている運命は月面への制御落下。つまりは
廃棄処分。集めたデータを送るだけ送り、送り終えたら命令に従って鉄くずと化す、それ
はどこか江戸の武士に似ているようで、ある意味全く似ていない。
 マイカはカーディガンから目を逸らさない。マイカが作業している長机に座っている俺
は、何するでもなくそれを見ている。指の動きと摘まれていく毛玉。帰る準備のつもりだ
ろうが、マイカは少しまめ過ぎると思う。ほかに誰もいない今、俺が直接言ってやろうか
と思ったが、言ったら負けだと思い直してマイカの指に目を戻す。第一にして俺はマイカ
の性根を直すほどの甲斐性でもなければ、まだそんな立場でもないのだから。作業を終え
て、カーディガンを持ち上げたマイカは、細い袖に左腕を通そうとしたところでふと顔を
俺に向け、怪訝な目をして「帰んないの? 7時半過ぎてるけど」と訊いた。
「学校に宿泊施設があればいいんだけどな。面倒臭い」
「けだるさ見せたい高校生みたいな台詞」

31 :No.11 オンステージ 2/5 ◇Loli.L85P2:09/06/14 23:19:25 ID:nMOdQxLz
「いや、そのまんまだろ、どう見ても」
「……自分の立場なんてわかってないかと思ってた」
 マイカは両腕を通してしまうと、カーディガンのボタンをおなかの位置でひとつ、ふた
つと留めた。カーディガンが体にぴたり張って、胸のところに携帯の形が長方形に浮き出
る。それに気づいてか気づかずか、思い出したように俺の目の前でカーディガンの胸元か
ら中に手を入れたマイカは、制服の胸ポケットから携帯を取り出してカーディガンの外ポ
ケットに移した。ストラップが重力に逆らえず下に垂れる。うさぎ。
「カバン取って、うしろ。ってか、帰る準備したら? もう学校に残ってるのうちらだけ
だと思うし」
「わかってるよ。……これ何入ってるんだ? やけに重い」
 ひったくるように受け取ったマイカは「早くしないと電気消すけど?」と怒ったように
言った。俺は立場どおりのけだるさで立ち上がる。床に投げておいた鞄を引っ張り上げ、
マイカのより軽いことを確認した俺は、戸口に立つマイカをしばらくぼんやり見ていた。
マイカはひどく帰りたがっている。
「ねえ、電気消しちゃうけど? 優柔不断は嫌いなんだけど」
 俺は肩をすくめてみせた。
「……かぐやにはさ、別の名前がついてる」
「はあ?」
 マイカは虚を突かれた顔。
「かぐやっていう名前があるのにセレネ、アルファベットでSELENEって名前もある。
セレネはギリシャの月の女神でアルテミスとだいたい同じ。ローマならルナ」
「ねえ、あのさ、天文語托なら明日聞くけど? 明日じゃなくてもいいけど、とにかく、
もう出ないと」
 マイカの口調は苛立ちを隠すつもりがなさそうだ。いや、マイカとしてはたぶん隠して
る。雨でも降ってれば面白いんだけど、そう俺は思った。
「せっかくかぐやっていう良い名前がついてるのに、国際上の通名をセレネにする意味が
わからない。ローマ字で『かぐや』じゃ何かデメリットでもあったんだろうか? 本当の
名前を使ってもらえないかぐやが不憫だと思う」
 話の間、マイカはドアにもたれ、わざとらしく明後日の方角を向いていた。きかないで
すよと自己アピール。けれどその方角には窓しかなく、その窓からは皮肉めいて月が見え

32 :No.11 オンステージ 3/5 ◇Loli.L85P2:09/06/14 23:19:50 ID:nMOdQxLz
ていることに今のマイカ本人が気づいているかは定かじゃない。俺がわざと間をあけると、
マイカは目さえ合わせず訊いた。
「もしかして終わった?」
「なにが?」
「……話」
「まだ聞きたいのか」
「ちがう、逆!」
「まだまだ聞きたいのか」
「先に帰るよ!?」
「いいよ帰れば?」
 一瞬言葉に詰まるマイカ。……とはいえマイカは伊達じゃない、去年の秋の舞台、主演
を張ったマイカを俺は舐めちゃいけないのだ。一方の俺は、しがない脚本書きに過ぎない。
「そう、帰らないなら朝までここにいたら?」と、まるで暗記していたみたいにしれっと
言えるマイカは敵ながら天晴れだ。「ちなみにここって幽霊出るってもっぱらの噂だけど
ね」と小悪魔みたいな嫌がらせさえ忘れない。今度は俺が困る番か。だいたいにして、俺
が帰ろうとしない理由なんてほとんど無いに等しいものだ。置き去りにされて困るのは俺
であり、俺の引力なんて月より遥か遥か劣る。何言ってるのかわからなくなってきた俺は、
そろそろこの場の雰囲気に呑まれ始めていた。
「幽霊が出て困るのは俺じゃない」
「私でもないけど。……ねえそろそろ8時だよ? 校門閉まっちゃうし用務員さん来ちゃ
う」
「そうなんだよなあ」
「そうなんだよなあじゃないでしょう」
 マイカは巧妙に焦りを抑えてる。俺にはわかる。なぜって、マイカより焦っているのが
俺だからだ。たとえばここでベタな人物像を出してもいい。たとえば用務員さん。彼は大
変生徒と仲良く、おまけに無類のお喋り好きと来てる。目撃したものは屈託なく生徒にし
ゃべってしまうし、それが生徒の興味を惹くものならあっという間に学校中に膾炙する。
そして悪いことには、それが例え話でなく実際に現状をややこしくしていて、マイカを焦
らせ、その焦りが俺を焦らせていた。
 これはさながら力比べ、もしくは終わりの近い我慢比べ。アナロジーがアレゴリーを見

33 :No.11 オンステージ 4/5 ◇Loli.L85P2:09/06/14 23:20:26 ID:nMOdQxLz
せ合って適切な次の単語を考えている、そんな感じ。あるいはパンに塗るのはバターかマ
ーガリンか、結局ジャムに落ち着くか。二方向から力を加えられた物体は安定した軌道を
描くけれど、現在の対象が物体でない以上、それが安定した軌道を描いている保証はない
し、だいいちその軌道の行方は俺が知りたい。
「7時53分」
「ひょっとするともう歩き始めてたりしてな」
「用務員さんを幽霊みたいに言わないの」
「幽霊よりはタチが悪い」
 刹那、マイカがくふっと笑う。俺は何だか楽しくなってきていた。そんなネジの外れた
笑いが次いでマイカにも感染したことを、今の俺は何より嬉しく思う。人間、どうしよう
もなくなると笑えてくるのだ。そうしてマイカは人工衛星でも惑星でも何でもない、他で
もなく人間なのだった。俺はひとつの結論、あるいは妄想を得ていた。
 結局のところ引力の大きさは質量に寄らない。
「ねえ、いいかげん帰るよ?」
「ん……」
「早く決めて。優柔不断は嫌いだってば」
「……わかったよ」
 この瞬間のマイカの表情ったらない。けれどそれを見せたのは一瞬で、あっという間に
平静に戻ったマイカはそっとドアを開けると隙間を覗き込み、「鞄持って、早く」と俺を
けしかける。
「ここから脱出するよ」
「すごい言葉使うんだな」
「だって見られたくないし」
 廊下の照明はほとんどがもう落ちていた。誰に頼まれたでもない脱出ごっこ。マイカが
先頭に立って廊下を横切り、俺がそれに続いて階段をそろりそろり降りる。果たして懐中
電灯の光が俺たちを捉えることはなく、そもそも懐中電灯の光なんて見なかった。何なく
玄関にたどり着いてしまったことに若干のバツの悪さは残りこそすれ、任務が達成された
ことには異論も文句もない。靴を履くマイカの手を支えている俺は最早俺じゃないみたい
だ。紺のハイソックスの覆う足をローファーに慌しく突っ込みながら、気紛れか、「結局
さ、かぐやの落ちる時間っていつ?」と今更のように訊くマイカはすべてにおいて卑怯だ。

34 :No.11 オンステージ 5/5 ◇Loli.L85P2:09/06/14 23:20:39 ID:nMOdQxLz
俺に答える以外の道がないことは誰の目にも明らかなのだから。
「……たぶん朝の4時ごろ」
「はあ?」
 はあ、ではないのですマイカさん。俺の手をほどいたマイカを見て俺はこの先に訪れる
ものを予想する。それは物体でなく、俺の予想通りの軌道を取る保証はない。けれど軌道
は緒力によって制御されうる。時間通りにかぐやが月に落ちるならそれもまた制御できる
のではないか、俺にはそんな予感がする。お膳立て通りに校門を通り過ぎた俺とマイカの
間にある何か。それを動かすために口を開いたのは、他でもないマイカなのだった。
「あのさ……」
「なに?」
「いきなりすぎるかも、しれないんだけど」


 ――終幕。その後のことを書くのはイレギュラーでありルールに反する。一方で書かずには
いられないのはそれが現に起こったからで、ただのトートロジーだと批判を受けようとも
俺には書く権利があると思う。
 マイカは俺に何を言ったか。恋の告白? だったら良い。最上に違いない。しかしそう
は問屋が卸さないのがこの世界。予測不能の事態が無数に起こりうる宇宙空間で、計算通
りとは言わずとも誤差の範囲内で任務を遂行することを人間の技術の勝利と看做すならば、
端的に俺は敗北したと言わざるを得ない。要するにマイカの恋の主役は俺じゃなかった。
ただそれだけの話であり、俺に要求された立場、脇役としての役割はマイカの恋を仲介す
ることだったというだけだ。俺を経由してのスイング・バイ。到達点は去年の舞台の相手
役。演目はかぐや姫で姫はマイカで、生憎と、脚本を書いたのは他ならない俺。月への着
地は壮絶な失敗に終わる。それは月だと思い込んでた相手が人間だったという、初歩的で
あまりに根本的な理由によるのだから笑えなさすぎた。この顛末、もしも俺が脚本を書い
たならこんなバッドエンドにはしなかったろう、そう言い訳して俺は降りることにする。
一体全体勘違いも甚だしく、改めて、俺は役者に向いてないな、と思えただけでも収穫と
すべきか否かは、観客の判断に委ねるとしよう。

 追補。月軌道衛星かぐやは午前3時25分、予定通り月面に制御投下され、2年間の任務を終えた。



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