【 あの背中を追って 】
◆oxQ.jXqnMY




42 :No.11 あの背中を追って 1/5 ◇oxQ.jXqnMY:09/06/28 23:55:46 ID:OhCCRWHx
 鶏ガラと形容しても差し支えのないようジジイが、かび臭い布団に横たわっている。
身は骨と皮ばかり、顔は土気色。煮詰めたら実に良い出汁が取れそうだ。
このジジイ、名前は里谷源治郎。年は九十一歳。
一年前から入退院を繰り返し、「そろそろ逝きそう」と親族に噂され、その度に死の淵から戻ってきた強者だ。
口さがない者は「逝く逝く詐欺」「土俵際の魔術師」と影で囁いているらしい。
だが、これまで異常な粘り腰を見せてきた源治郎も、次に乗る車は救急車ではなく、間違いなく上部に神輿の着いた霊柩車だろう。
まさに今、天に召されようとしている。

「良い人生だった」
赤子のような顔で源治郎は呟く。振り返ると、確かに楽しいことばかりではなかった。
悔しさに泣いた日もあれば、怒りで拳を突き上げたこともある。しかし幸せだった日々も確かにあった。
総じて、彼の九十年は、確かに良いものだった。源治郎はそう思うのだ。
「心残りなんか、なーんもない」
床の間で、うわごとのようにもう一度呟いてみた。その声を聞き届ける者は誰も居ない。
今日に限って周りに誰も居ない。一人っきりの旅立ちとなりそうだ。
「なーんも……」
もう一度呟いたとき、涙が源治郎の顔を濡らした。それは悲しみの涙ではない。
そう。心残りなんて何もないのだ。これで妻と再び会えるのだから。源治郎は静かに目を閉じ、邦子との思い出に浸る。

 出会いの日から二人の上下関係は決まったようなものだった。
十歳の頃、山中でたまたま見つけた猫を追いかけ、気が付けば源治郎は道に迷っていた。
あんな馬の骨のような男でも、居なくなられては困ると、年長者が探しに出かけることとなった。
その中の一人が邦子だ。結果、無事に邦子は源治郎を発見し、家まで連れ戻す役目を担うことになる。
「ほら、こっちだよ」
「うん」
これが邦子との、最初の会話だ。先行く邦子の背を、源治郎は夢中で追いかけた。
邦子は油断すると脇道に逸れ、場合によっては逆送する源治郎を懸命に先導し、なんとか目的地まで辿り着いた。
その後、七十年程の間ずっと、源治郎を導くことになるとはさすがの邦子も想像できなかっただろう。
源治郎の歩むべき道はいつだって邦子が示してくれたのだ。

43 :No.11 あの背中を追って 2/5 ◇oxQ.jXqnMY:09/06/28 23:56:08 ID:OhCCRWHx
 源治郎と邦子が結婚の約束をしたとのニュースが近所に広まったときの話をしよう。
大変な騒ぎとなった。「あんなぼんくらに、こんな良い女勿体ない」と、邦子を引き留めるために大勢の人が邦子の家を訪れた。
源治郎を妬み、近所の野郎共が源治郎の家に乗り込んだ。それも仕方がない
源治郎は、邦子に指輪さえ買ってやれないほどの甲斐性なしだったのだ。
そんな中、源治郎の両親は「あんたには勿体ない素晴らしい嫁だ。これがあんたの最高の親孝行だ」と泣いて喜んでいた。
邦子の両親に挨拶に行く日、そんなに周りが騒ぐものだから、生粋のぼんくらである源治郎はガチガチに緊張していた。
緊張しすぎた源治郎は、邦子の両親を目の前にして、何も言えない。
晴れの場に、通夜のような気まずい空気が流れた。
「こらっ。ちゃんと挨拶しない!」
邦子が頭を右手で押さえつけ、ようやく「こんなんでごめんなさい。私が源治郎です」とようやく挨拶させた。
返す返すも情けない男だった。
「こんな私でも、邦子さんが居てくれれば幸せな人生を歩むことが出来ます。邦子さんを育ててくれて、ありがとうございます。
邦子さんは私の幸せへの道標です」
それが彼のプロポーズの言葉だった。邦子の両親は、笑って、
「自慢の娘ですから」
と言った。これがご近所一番のおしどり夫婦の誕生の瞬間だ。邦子はそれを見て一言。
「良くできました」
晴れやかな顔でそう言った。

 そんな邦子が居なくなって、もう十年だ。
その間源治郎は、道に迷ったとき「邦子ならどうするかな」と、そればかり考えていた。
もう手を引いてくれる人はいないのだ。進むべき道を記してくれる心強さも、手を握ってくれる温かさもない。
そうやって十年。自分にしては良くやった方だと思う。きっと邦子も褒めてくれるだろう。
だから、心残りなんてないのだ。……否、強いて言えば指輪を渡してあげることが心残りか。
しかし、あの邦子だ。きっと笑って、怒って、許してくれるに違いない。

そう結論づけ、目を閉じた。すっと意識が遠くなる。なんだかとっても気持ちが良い。そうして源治郎は眠りに落ちた。


44 :No.11 あの背中を追って 3/5 ◇oxQ.jXqnMY:09/06/28 23:56:31 ID:OhCCRWHx
夢を見ている。初めて邦子と出会った日の夢だ。山中で三歩先を歩む邦子の背中が見える。
邦子の若き日のあだ名、「山姥」を連想させるに十分な、堂々たる歩みで彼女は歩いて行く。
「ああ、またその背中を追えば良いんだね」
いつだって邦子は自分の進むべき道を示してくれる。きっと今度もあの背中を追えば間違いない。
しかし今回は、行き着く先は暖かな我が家ではないはずだ。
きっとあれは極楽へ繋がっているのだろう。今となっては、自分の進むべき道はそれしかないのだから。
だけど、行く先に彼女が居るのなら、なんの不安もないではないか。
「さぁ、今行くよ」
呟いたとき、背中が振り返った。そして
「ちゃんとみんなに挨拶しなさい」
声が聞こえた。邦子の声だ。
「はい
とっさにそう答え、源治郎は夢の世界から引き戻された。

夢の意味を考える。そう言えば、邦子が昇天するときは、死去というより「死亡という任務を遂行します」という位、見事な死にっぷりだった。
事前に不要なものを処分し、遺書を残し、ゴミをきっちり捨て、源治郎がしばらく生きていけるだけの食料を残し。
現世の憂いを完璧に取り除き、不必要な自分の痕跡を親の敵のように消して回り、後の混乱の種を根絶やしにする。
それはそれは死亡手順書とでも言うべき見事さだった。あまりにも見事に消えたものだから、源治郎などは泣いてしまったほどだ。
残り香くらい、残してくれてもいいじゃないか、と。

源治郎もそれに倣おうと思った。先ずは風呂を沸かし、身を清めた。
そしてハサミを取り出し、散髪。目標は、邦子が「かわいいね」と言ってくれた頃の髪にすること。
軽く掃除をした。邦子が居なくなってから、特に何も買っていないので、時間は掛からない。
トイレの掃除は念入りに行った。残された人に迷惑を掛けてはいけない。
そして、遺書を書くため、筆を取った。書き出しは決まっている。
「言うまでもないことですが、邦子と同じお墓に入れて下さい」
最初の一文はこれで決まりだ。後は筆が進むままに書き連ねる。
残された者を気遣い、決して落ち込まぬよう。問題を起こさぬよう、最新の注意を払い、書き綴る。
邦子をずっと見てきた源治郎には、それが出来る。筆を置き、読み返してみた。


45 :No.11 あの背中を追って 4/5 ◇oxQ.jXqnMY:09/06/28 23:56:51 ID:OhCCRWHx
「なんだ。私もなかなかやるじゃないか。なぁ、邦子さん」
返事の声はない。だけど、もう一言、何もない空間に向かって声を掛ける。
「さぁ、これで挨拶も済んだよ。また褒めてくれるかな。邦子さん」
そして力作を丁寧に折り畳む。遺書は、邦子のように化粧箱に入れることにした。
遺書を読み返すと涙が出るから、それは邦子が奇跡に入った日より、開けていない。
タンスの一番上の引き出しにしまってある。静かに取り出し、開けてみた。芳香剤の香りが鼻を突く。
そして目を見張った。誰が、いつの間に用意したのだろうか。遺書が、二通に増えていた。
以前目を通した邦子のものと、そしてもう一通。逸る心を抑えきれず、目を見開いて読んでみる。
「お久しぶりです。お元気でしたか? お体は大丈夫ですか? 落ち込んでませんか? 今貴方宛に、二通目の遺書を書いています。
こんな時でも、思うことは貴方の心配ばかり。愛というのは本当に面倒なものですね。
さて、この遺書は私が去った後の貴方に与えられた、最大の試練である死去についてのものです。
従って、私が死亡して暫くしてから化粧箱に入れてくれるよう、お隣の増田さんに頼んであります。
今から書く指示に従って、死去の準備を滞りなく進めて下さいね。まず……」
思わず、笑いが出た。邦子は死に方まで私に教えてくれる。次に涙が出た。自分はなんと愛されているのかと。
そのまま読み進めていく。
「さて次に、もう一度心残りがないか確認して下さい。これがあると無事にあの世に行けませんから。
それと、私の心残りをこの化粧箱が入っていた隣の引き出しに入れておきましたから、忘れずに持ってきて下さい」
邦子の心残り? なんだろう。邦子にそんなものがあったのか。彼女の死に顔は実に満ち足りていたじゃないか。
そう思いながら、隣の引き出しを開いた。小さな紺色の箱に、指輪が入っていた。二つ。
そして小さな紙に、
「今更ですが、貴方と一緒に指輪をつけてみたかったのです。貴方もそうでしょう? 必ずこちらに持ってきて下さいね」
と添えられていた。
「あぁ、そうだよ。私も本当はずっとそれが引っかかっていた」
泣いた。


46 :No.11 あの背中を追って 5/5 ◇oxQ.jXqnMY:09/06/28 23:57:10 ID:OhCCRWHx
 邦子が出してくれた指示は全てこなした。指輪は大事に胸元に抱いた。これはずっと抱いて持って行くのだ。
自分が旅立った後、直ぐに発見してくれるよう、みんなには手紙を出してある。流石に葬儀屋に連絡するのはやめた。
旅立ちは静かな方が良い。
そして、目を閉じた。
「これで良いかな。邦子さん」
小さな声で、空中に向かって問いかけた。
「良くできました」
声が聞こえた気がする。もう大丈夫らしい。一仕事、終えたのだ。とっても良い気分だ。
自分は既に夢の中かも知れない。また邦子の背中が見えるのだ。今度こそ、あの背中を追おう。お許しが出たのだから。
邦子は何時だって源治郎の進む道の、少し前を歩いてくれる。
だから、あそこに行くのは怖くない。邦子が、待ってくれてるのだから。何の心配も要らないのだ。
もう現世にはやるべき事など何一つなく、あちらには邦子が居る。自分はなんとも幸せじゃないか。
そうして、意識を手放した。
今回も邦子の背中が振り返った。その顔は笑っていた。
さて、待たせたね。指輪を渡そう。源治郎は笑顔で、邦子に向かって駈けていった。

【了】




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