【 十二回目の敗北 】
◆71Qb1wQeiQ




7 :No.02 十二回目の敗北 1/4 ◇71Qb1wQeiQ:09/07/05 19:40:32 ID:CncSdpMd
 午後十時十八分、closedの看板がかけられたとある喫茶店。
 店内の掃除をしているウェイトレスを横目に、店長の西山はカウンターに立ったまま、「さて」とポットを手に取った。
 その手元に並んでいるのは、準備の終わったネルドリップ用のコーヒーセット一式。フィルターの中にはコーヒーの粉が既にスタン
バイしており、その上から西山は静かにお湯を注ぐ。
 量は少量、ただし全体にいきわたるよう、西山は注意しながらポットを傾ける。
 そうしてのの字を描くようにお湯を注いでいけば、立ち上り始めるのは濃厚なコーヒーの香り。小ぢんまりとした喫茶店の中を瞬く
間に席巻したその香りから察するに、間違いなく美味しいコーヒーが抽出できるだろう。
 だが、そのコーヒーを見下ろす西山の顔は、微妙に曇っていた。
「気に入らないな」
 ぽつりとつぶやく西山。その小声を、ウェイトレスの陽子は耳ざとく聞きつけた。
「何がです?」
 そういって顔を上げながらも、陽子はテーブルを拭く手を止めない。
 バイトとは言え、勤めはじめてもうじき一年になる陽子の手際は見事なものだ。エプロンドレスを翻し、てきぱきと椅子を並べ直し
ながら、陽子は続ける。
「コーヒーに何か不満が?」
「いや。いつも通り良いコーヒーが出てるよ」
「売り上げが悪かったとか?」
「いや。むしろ上々だよ、今日もね」
「生え際がピンチだったり?」
 陽子の指摘に、西山の動きが一瞬止まった。
「いやいや。僕はまだそんな歳じゃない」
 西山は強めに首を振る。かく言う本人の言葉どおり、西山の生え際はまだまだ安泰なレベルだ。
 とはいえ、男一匹三十二歳。父方、母方ともに白熱灯のごとき輝きをたたえる方々が血族に連なっている西山としては、そろそろ笑
い話では済まない気配が漂ってきているのもまた現状だ。
 だが今、西山が気に入らないと言ったのは、そんな暗澹たる未来のビジョンではない。
 もっと身近で、かつ大事な事柄だ。
「はぁ。ヘンな西山さんですねぇ」
 テーブルを拭いていた雑巾を折り畳みつつ、陽子は床へと視線を落とした。そして、ごく当然のように続ける。
「マスターもそう思いませんか?」
 そんな陽子の声につられ、椅子の下から一匹の黒猫がひょっこりと顔を覗かせた。

8 :No.02 十二回目の敗北 2/4 ◇71Qb1wQeiQ:09/07/05 19:41:23 ID:CncSdpMd
 なぜ、こんなところに猫が居るのか。その理由は一年前、店の裏手で行き倒れていたその黒猫を、当時新入りだった洋子が拾い、西
山が気まぐれで介抱した結果だった。
 今やすっかりこの店に馴染んでいるその黒猫は、長い尻尾をくねらせながら、陽子の言葉を肯定するかのように「なー」と鳴いた。
「それだよ」と、間髪入れずに西山が指差す。
「どれです?」と、陽子と黒猫が首をかしげる。
 示し合わせたかのようにぴったりな猫とバイトの動きに溜息をついた後、西山は訥々と語りだす。
「良いかい? 何度も言うようだけど、この店の店長は僕なんだよ? ならマスターはこの僕であって、そいつじゃない。分かる?」
「分かりません」
 花の咲くような満面の営業スマイルで、陽子は即答した。
 表情を硬直させながら、それでもなおプロ根性でポットを動かし続ける西山へ向かって、陽子は更に続ける。
「だってマスターが居なかったら、とっくに潰れてたと思いますよ、この店」
 直球な陽子の指摘に、西山は「む」と言葉に詰まった。
 陽子の言葉に嘘は無い。不況の煽りを受け、一時期は閉店秒読み段階にまであったこの店が未だに経営を続けていられるのは、ひと
えに陽子がマスターと呼んだ黒猫のお陰だ。
 始まりとなったのは、陽子を中核とした女性のおしゃべりネットワークだった。
 最初こそは「ケガをした猫が店にいる」という、ごく些細な情報だった。だが、いつの間にやらその猫に魅了され、通い始めた客が
一人、二人、三人、四人。
 そうした固定客を介して情報は更に広がり、気がつけば西山の店はそれまでに無かった多大な恩恵を受けていた。
 今までとは桁が一つ違う売り上げ、足しげく通ってくれる固定客の更なる増加、長年の夢だった店内改装の費用の捻出、等々だ。
 数え上げればキリがないが、その中でも一際大きなものが、雑誌に「猫のいる喫茶店」と紹介された事だろう。
 モダンな内装と美味なコーヒー、そして優美な黒猫のお出迎えという三拍子揃ったその宣伝文句は、ただでさえ伸びていた売り上げ
を更に倍増させるという素敵な結果をはじき出した。
 ただしその代償として、マスターの座は西山ではなく黒猫のものとなってしまったのだが。
 西山が「気に入らない」と言った理由の一つがそれだ。いくらマスターの肩書きを掠め取られたとは言え、招き猫を追い出すわけに
はいかないのだから。
 だが、だからこそ譲れない一線が、西山にはあった。
「まぁ、とにかくだ。そいつをいつまでもマスターなんて呼ばせるわけにはいかん」
「露骨にごまかしましたね」
「いかないんだ」
「はいはい」と鼻白む陽子を他所に、西山は黒猫へ人差し指を突きつける。

9 :No.02 十二回目の敗北 3/4 ◇71Qb1wQeiQ:09/07/05 19:42:18 ID:CncSdpMd
「だから、今日という今日こそは、僕がお前に相応しい名前をつけてやる」
 そう言ってポットを置き、西山は腕を組んだ。そうして目を閉じ、うんうんと唸りを上げる事たっぷり三分。
 くわ、という音が聞こえそうな勢いで目を見開きながら、西山は会心の笑みとともに言い放つ。
「決まった! 今日からお前は『いかなご』だ!」
 と、カウンター越しに命名されてしまった黒猫は、しかしどこ吹く風といった体で大きくあくびをした。
 気に入る、気に入らないという以前に、そもそも自分がその名前で呼ばれていること自体に気付いていないらしい。
 その見事なまでの受け流しっぷりに、西山はがっくりとうなだれる。
「な、何故だ。これでもう十二回目だというのに、一体何が不満なんだ?」
「自覚できない辺り、西山さんも相当ですよね」
「なら、陽子くんは何が問題なのか分かるのかい?」
「当然ですよ」
 えへんと胸をそらしつつ、陽子は講釈を始める。
「とにかく、西山さんにはセンスが無いんですよ。ですから、その辺の感覚を磨かないとダメです」
「具体的には?」
「そうですねぇ。ベタですけど、まずは小説を読んだり、映画を見たりするんですよ。で、西山さんはその登場人物とかから名前を考
えて、私に言ってください。私がダメ出ししますから」
「なるほど。それは良いかもしれないな」
「でしょう? ついでに私のお給料も上げてください」
「それはダメだな」
「ちぇー。西山さんはケチですねぇ」
 むくれつつ、陽子はもう一度床へ視線を落とす。
「マスターもそう思いますよね?」
 だが、今度は返事が無い。それどころか、黒猫は影も形も見当たらない。
「あれ? マスター?」と言いながら陽子が辺りを見回した矢先、とん、という軽い音がカウンターの上で踊る。
 見れば、そこにいたのはいつのまにやら移動していた一匹の黒猫。尻尾をウズウズさせながら西山を見上げる黒猫の瞳は、明らかに
何かを待っていた。
 その縦長の双眸と、西山は視線を合わせる。誰も彼もが無言のまま、じっくりと時間だけが過ぎていく。
 やがて、西山は「まったく」といいながら視線をそらした。
「冷める頃合いまで覚えやがったか」
 ぼやきつつ西山はソーサーを一枚取り出し、その上にドリップしたコーヒーをゆっくり注いでいく。

10 :No.02 十二回目の敗北 4/4 ◇71Qb1wQeiQ:09/07/05 19:43:27 ID:CncSdpMd
 そうして出来上がった琥珀色の水面に、黒猫はゆっくりと鼻先を近づけ、匂いをかぐ。
 ゆっくりと、黒猫の尻尾が揺れる。コーヒーの香りを楽しんでいるのだ。
「今日も美味しそうですねぇ」
 楽しげな陽子のつぶやきに、西山も「そうだな」と同意する。
「というか、何だ。最近この店で僕の次にコーヒーを味わってるのは、多分きっとコイツなんだよな」
 ぼやきつつ、西山は黒猫がコーヒーを飲むようになった原因を思い返す。
 ケガの介抱をしている最中、冗談半分で与えてみたドリップコーヒー。それを一口舐めた直後、黒猫はソーサーのコーヒーを瞬く間
に飲み尽してしまった。
 それからだ、黒猫が毎日のように西山のコーヒーを要求するようになったのは。
「コイツ目当てで来る客のほとんどは、コーヒーの味なんざロクに味わっちゃいない。もちろん分かってくれる客も居ないワケじゃな
いが、そういう客は『猫の店』目当てで来る客に押し退けられて、入って来づらいらしい」
 ぽつぽつと語る西山の言葉に、陽子も少し考え込む。
「うーん。言われてみれば、確かに私が勤め始めた頃に比べて、随分と客層も変わりましたよね」
「そうだ、女性客がやたらと増えた。ウチは一応、こだわりのコーヒーがウリの店だったんだがね。今じゃすっかり井戸端だ」
 ふ、と西山の口元が吊り上がる。
「無論、それが悪いわけじゃない。むしろ売り上げが増えたんだから、良い事なんだろうさ。だが、どうもな」
「ははあ。さっき気に入らないって言ってたのは、そういう事だったんですか」
「ああ」と頷く西山にの耳に「なー」という催促が届く。見下ろせば、ソーサーはもう空になっていた。
「まったく、美味そうに飲むヤツだ」
 苦笑しつつ、二杯目をソーサーに注ぐ西山。皿の上に広がっていく琥珀色を眺めながら、西山は続ける。
「何にせよ、僕はまだまだ諦めない。猫目当ての客と、コーヒー好きの客。どちらも気軽に通える店にしてみせる」
「それはまた、随分と長引きそうな勝負ですねぇ」
「まったくだな。だが、やりがいはある。そして、つけてみせる。最良の形の決着をな」
 そう言って、西山は力強く笑った。その眼差しは、いつの日か必ず勝利と肩書きをもぎ取れる事を信じていた。
「そうですか。勝てるといいですね」
 営業スマイルではない、柔らかな微笑みを浮かべつつ、陽子は続ける。
「ところで、マスターがおかわりを要求してますよ?」
 そう陽子が言い終えるよりも早く、黒猫が「なー」と催促する。
 頬をかきながら少し逡巡した後、西山は諦めて三杯目をソーサーに注ぐ。注ぎながら、ぽつりとつぶやく。
「だから、マスターは僕なんだってば」



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