【 琥珀色のアイスコーヒー 】
◆7cy2QI8jBM




21 :No.6 琥珀色のアイスコーヒー 1/4 ◇7cy2QI8jBM:09/08/09 22:11:55 ID:ukiWlYbI
 フェケテリコに初めて足を踏み入れたのは、大学二年の八月二日だった。梅雨が明け、
強い日差しが身を焼くような日だったと覚えている。
 コーヒー好きの僕は、夏休みになって暇もあるし、と喫茶店散策をしていた。見つけた
のが、フェケテリコだ。国道四号に面したこげ茶色のその店には鳥の看板を掲げていて、
何だか気になったのだ。
「いらっしゃいませ」
 冷房が効いた店内に入ると、髪に白が混ざり始めた笑顔が優しそうなマスターが出迎え
てくれた。僕はカウンター席に腰掛け、アイスコーヒーを頼んだ。
 店内は外装と同じく、ブラウンで統一されていた。それなのに暗く感じないのは窓から
差す日光のせいか、穏やかに流れるジャズのせいか。解らないがまだコーヒーに口をつけ
てすらいないのに、僕はこの店を気に入りはじめていた。
「どうぞ、アイスコーヒーです」
 するとマスターがアイスコーヒーをカウンターに置いたので、視線をそちらに向けた。
 そこにあったのは黒曜石のように黒いコーヒーでなく、紅茶を濃くしたような、グラス
の向こうがうっすら見えるほど透き通った琥珀みたいな色のコーヒーだった。思わず見つ
めてしまう。
「アイスコーヒーはね、本当はこんな色をしてるんです」
 僕が驚いていることを察したのか、マスターは微笑を浮かべた。
「真っ黒なコーヒーは古い豆を使ってるんです。大体一年とか、二年前の豆ですね。けど
それだけ時間がたっていると酸化しきっちゃって、苦いだけなんです。ちょっと飲んでみ
てください」
 マスターに促されコーヒーを口にする。口内に芳しい香りが漂った後、何とも形容でき
ないコーヒーの味が広がり、後には僅かな苦味と酸味が残った。粘つくような苦味など欠
片も無く、瞬く間に苦味は霧散した。
「全然、苦くないです」
「そうでしょう。これが本当のコーヒーの味なんです。年をとって黒く濁った、苦味だけ
のコーヒーとは違うんですよ」
 嬉しそうに笑みを浮かべながら、マスターは言った。
 
   *

22 :No.6 琥珀色のアイスコーヒー 2/4 ◇7cy2QI8jBM:09/08/09 22:12:46 ID:ukiWlYbI
 それから僕は、フェケテリコに足繁く通った。大学卒業までの三年間、一週間に一回は
必ずコーヒーを飲んだ。
 マスターの名前は野沢清彦。前の職務に疲れたから故郷でのんびり、前々からやりたい
と思っていた喫茶店を経営している、と彼は言った。五人の子供、長男次男三男、そして
長女次女も親離れしちゃいまして。清彦さんは寂しそうに笑った。夏と冬に帰ってきてく
れる三男だけが救いですよ、とも言った。
 大学卒業して職についてからも、足を運んだ。勿論毎週というわけにはいかなかったが、
それでも暇を見つけて店に顔を出した。コーヒーが飲みたいからって理由だけじゃない。
清彦さんと会話したい、そう思ってもいたからだ。
 そして結婚して、娘が出来て。挫折もして、上司の機嫌を伺うために自分を殺したりも
して過ごした十五年間。初めてフェケテリコに踏み入った二〇歳の夏から、僕はずっとフ
ェケテリコでコーヒーを飲んだ。時には家族と、時には一人で。優しいマスターとの交流
を楽しみながら。
 ――その清彦さんが、死んだ。死亡日時は
八月二日。偶然にも、僕が初めて清彦さんに出会った日と、同じ日だった。
 
   *
 
 清彦さんの葬式は粛々と行われていた。豪勢な祭壇、千人収容出来そうなほどの広さ。
それでも満員の葬儀場には、お坊さんの読経だけが響いている。集まった人の中には田舎
臭さを感じさせない人も少数だがいて、この人達はどんな関係で来たんだろう、と思った。
……けど、それを言ったら僕ら家族も同じか。
 あれよこれよと言う間に読経は終わり、別れの時間が近づいてきた。今は喪主を勤める
奥さんが、能面のような表情で挨拶を行っている。前方に座る五人の息子さん方ものっぺ
りと無表情で、僕は何だか薄ら寒くなった。
「……主人は東京での激務で体を壊し、隠居してこちらで夢だった喫茶店を始めました。
結局は東京での一件が響いて病に倒れてしまったのですが、それでも最後は幸せだったと
思います……」
 けれど挨拶を聞くと、ちらほら見える都会人はそういう事だったのかと思うと同時に、
マスターは凄い人だったんだなと少し、涙ぐんだ。

23 :No.6 琥珀色のアイスコーヒー 3/4 ◇7cy2QI8jBM:09/08/09 22:13:29 ID:ukiWlYbI
 やがて喪主挨拶も終わり出棺という段取りになって、参加者一同葬儀場の外に出た。中
天には燦々と輝く太陽が昇っている。初めて出合ったあの日みたいに熱い……けど、明る
く穏やかだった清彦さんの葬儀に相応しいな、なんて考えていた。すると娘の祐子が服の
裾を掴んでゆすった。
「お父さん、……おしっこしたい」
「えっ、うーん……我慢出来ないか?」
「うん」
 出棺は見届けたいんだけどな、頭をかく。
「晶子、トイレが何処にあるか解ってるっけ?」
「ごめんなさい。ちょっと、解らないわ」
「そっか。……じゃあ、しょうがないな。ほら、祐子。きなさい」
 祐子の手を引き葬儀場内のトイレを目指す。すると中から、葬儀場関係者以外誰もいな
いはずの室内から声が響いた。怒声だ。
「……どうなってるんだっ。何故浩介があれほど遺産を相続するんだ。長男は俺だぞっ」
 足が止まった。彼らは何を言ってるんだ?
「あの子はいつも実家に帰ってたわ……お父さんは東京を離れてから子供たちに会いたが
ってたし、家に行けば遺産を沢山貰えるかもしれないと思ってやってたのかもしれないわね」
 祐子が私の手を引く。ごめんな、そう言って声の方へ歩き出した。声はトイレの方から
届いていた。
「全く、ふざけた奴だ。ノロマで一番出来が悪かった癖に。親父も親父だ。いくら子供が
恋しいからって、そんな理由で遺産相続……」
「……あ、どうも。失礼します」
 角を曲がると清彦さんのご子息がいた。年の頃から見て長男と長女だと思った。
 彼らは私の顔を見るなり顔色を変え、ぎこちなく頭を下げた後いそいそとその場を離れた。
 僕は憤慨していた。葬儀の最中に、遺産分配の話? お前達は悲しくないのか。思えば
喪主挨拶の時も皆無表情だった。清彦さんが可愛がっていた三男でさえ、そうだった。み
んなあの顔の裏で、遺産のことだけ考えていたというのか? 
 それはあまりにも悲し過ぎる。清彦さんが浮かばれない……。
「お父さん、怒ってる?」

24 :No.6 琥珀色のアイスコーヒー 4/4 ◇7cy2QI8jBM:09/08/09 22:14:01 ID:ukiWlYbI
 ぎぃとドアを開け、トイレから出た娘がそう言った。予想だにしない言葉に一瞬声が詰
まる。
「え……いや、怒ってないよ。どうしてそう思ったんだい?」
「さっきの人も怒ってたから、トイレにきちゃ駄目だったのかなって……」
 祐子は心配そうな声で言った。顔には不安の色が浮かんでいる。親に怒られるのは、誰
だって嫌だものな。僕は表情を和らげて語りかける。
「そうか。いや、お父さんは怒ってないよ。……彼らは怒ってたみたいだけど」
「どうして怒ってたの?」
 どうして。正直に言うには、娘は若すぎるし、理解出来ないだろう。けれど嘘はつきた
くなかった。
 人生三十路を通り過ぎて、つかなければならない嘘がある事は知っていた。社会で生き
ていく上で、汚さも必要と解っていた。けど、今ここで嘘をついたら無表情を装っていた
彼らと同じになる気がして嫌だった。だから僕は少し考え、こんな言葉を口にした。
「そうだな……きっと、年をとって心が真っ黒に濁ったせいだと思うよ」
「……お父さんも、そうなの?」
 祐子は難しい問題に直面したかのような表情を浮かべた。僕は少しだけ笑った。もしか
したら、そうなのかもしれないな。その拍子に忘れていた熱さを思い出した。同時に、十
五年前のあの光景が脳裏に浮かぶ。優しいブラウン、穏やかなジャズ、そして人が良いマ
スターと透き通ったアイスコーヒー。
 ――もう一度、清彦さんのコーヒーが飲みたいな。冷たく透き通った、琥珀色のアイス
コーヒーが飲みたい。あの日みたいな透き通った心ではないけど。
<終>



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