【 クロコダイルバード 】
◆QIrxf/4SJM




2 :No.01 クロコダイルバード (1/5) ◇QIrxf/4SJM :09/10/04 23:37:16 ID:w/cycMKx
 ◇

「本当に行かないんだね?」と陽子おばさんが言った。「もう一度訊くけれどね。」
 私は椅子を傾けて廊下越しに玄関先を見据え、首を振って見せた。
 おばさんはドアを開けてストッパーをかけ、そこに片腕を突いて立っている。
 まだ幼い弟は玄関に腰掛けて、とっておきのブーツを履こうとしている。なかなか上手くいかないようで、立ち上がって踏んづけてみては、履くに至らず折れ曲がってしまい、下唇を出して再び座り込む。だが、そこに苛立ちは見られない。
 彼は玄関先から繋がる先に期待し、胸を膨らませているようだ。なるほど、まだ幼いのだし、何かにイヤになるような出来事に遭遇して気に病むほどの成長もしていない。大泣きすれば全てを解決できる幼稚さ。
 かといって、私が彼のことを嫌いなのかと訊ねられれば、顔の前で激しく手を振って否定するだろう。本当に私のことを理解してくれるのは、幼いが故に、弟である彼しかいないのである。彼は何でも受け止めて、私の袖を引っ張りながら首を傾げるのだ。
 おばさんが弟の前に立って手を差し伸べる。
「一人でできるの。」と弟は首を振って、またブーツを踏んづけた。
「あら、そう。」行き場を無くした手をシューズボックスの上に置き、寄りかかって体を斜めにすると、おばさんは私を見た。「あんた、本当に行かないのね?」
 私は再び首を振った。何度言われようとも、母に会いに行くつもりは無い。それに今、私はコーヒーを飲んでいる。随分ぬるくなってしまったけれど、この苦くて黒い液体をゆっくりと啜りながら、口内炎のある歯茎を舐めることに専念しているのだ。
「お姉ちゃん」
 弟の呼び声で私は立ち上がり、舌をもぞもぞ動かしながら玄関先まで歩いた。裸足のまま弟の前にしゃがみこむ。
「足を伸ばして。」
 弟は機嫌よさそうに鼻歌を歌いながら、足を差し出す。「エルマーよんで。」
「ぬくぬくのベッドの上でね。」
 私はずれた靴下を直してやり、愛すべき小さなあんよに、ムートンブーツを通してやる。
「もこもこ。」と弟は嬉しそうに言った。
 弟は、ブーツを気に入ってくれた。暖かそうな、このムートンブーツを、である。私がプレゼントした中では、最も高価なものだ。
 私は、弟と一緒に立ち上がった。長袖の英字プリントTシャツの上に黒いデニム地のサロペットを着、そのスカートの下からは灰色のタイツが伸びていて、丁度脛の真ん中あたりまである。靴はもちろん、もこもこと賞されたブーツだ。
「ながぐつ。」両足にブーツを履かされて、機嫌をよくしたのだろう。弟はニ、三足踏みをした。
「雨で台無しにしたら駄目よ。水溜りは避けて歩くの。長靴だけど、長靴じゃないから。」
 弟は首を傾げる。「くろいゴムながぐつ?」
「そうじゃないから言っているの。濡れたら、もこもこが台無しよ。」私はシューズボックスに倒して置いてある水玉模様の小さな傘を選び出し、弟に手渡した。
 おばさんと弟は手をつなぎ、ドアのストッパーを外す。
「いってきます。」弟は傘を持ち上げた。
「行ってらっしゃい。」

3 :No.01 クロコダイルバード (2/5) ◇QIrxf/4SJM :09/10/04 23:37:36 ID:w/cycMKx
 ◇

 一人残された私は、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干し、ソファに腰掛けた。あたりが静かになってしまうと、忘れていたことが雑音みたいに次から次へと蘇ってくる。
 部屋は少し寒いのに、ひどく喉が渇いた。テレビでもつけようかと思ったが考え直し、徐に立ち上がるとキッチンに向かった。
 弟のことは心配だけれど、一緒に行く気にはなれない。行く先が気に入らないのだ。おばさんは何度も私に勧めたけれど、これから追いかけようという意志だけは湧かないだろう。私だってさっきのおばさんみたいに、母には何度も呼びかけ警告したのだ。説得も試みた。
 時には飲みかけのオールドパーを奪い取って、全てをキッチンシンクの中へと流した。見慣れない瓶が家のどこかで見つかれば、それは十中八九、母のものだ。隠し場所なんか、とうに見透かしている。表面だけ取り繕って、裏ではこそこそ約束を破っているのだ。
「見透かしていたんだ、全部。」
 グラスに水を汲んだ。
 普段あまり使わない食器たちが眠っている、食器棚下段の戸をあけて、重なった小皿を出していく。それは大抵五枚ずつ揃えられており、あと一人くらいなら、家族が増えても対応できる枚数だが、二十ちかく離れた弟がいるのに、これ以上なにを望めよう。
 何種類か取り払ったところで、食器棚の奥に隠れていたものが姿を現す。ギラギラ緑色に光っているみたいに、私には見える。
 このクソ忌々しい緑色の液体、アブサンの瓶を引っ張り出すと、食器を元の位置に戻した。グラスと瓶を持って立ち上がり、足で戸を閉めると、キッチンを出て食卓の席に腰掛ける。飲みかけのコーヒーカップを押しのけて、アブサンをテーブルに置いた。
 シュガーポットの中に積まれた角砂糖の一つを指に乗せ、アブサンを数滴垂らす。それを舌に乗せて、口に含んだ。
「こんなもののために。」私は目頭を押さえ、しばらく角砂糖を口に含んだままじっとしていた。角砂糖は速やかに溶けていく。口内炎に砂糖水が当たると少し沁みた。悔しいことばかり思い出す。私はほとんど何も出来ず、天秤にかけられれば、私のほうが軽かったのだ――
 目を開けて、瓶に手を伸ばす。私は喉が渇いていたはずだ。だから、コーヒーカップにアブサンを注いで、角砂糖を落とし、グラスに残っていた水を並々加えると、ぐいと一気に飲み干した。
 本来、飲めたものではなかった。父系は下戸の集まりのはずだ。喉から胃袋へかけて、焼けるように熱い。
 吐く息まで熱いような気がして、私はソファに横になった。壁にかかった時計は、十時半をさしている。弟と一緒に行けば、時間なんてすぐに過ぎ去ってしまうかもしれない。けれども、母と対面したとき、正気でいられる自信なんてなかった。弟に無様な姿は見せたくない。
 おばさんからしてみれば、私も母と同じなのかもしれない。まるでワニみたいに、水面から目と鼻だけを出して、その下では虎視眈々と自分の欲を満たそうと画策している。
 父に電話をかける。「お前大丈夫か?」「うん、平気。」彼は電子メールよりも、声を好むのだ。陽子おばさんがやってきて、弟をしっかり連れて行ってくれたことや、私は行かなかったことを報告する。忙しそうだから、要件だけを手短に伝えて、携帯電話を閉じた。
 今、母のために使っている父のお金は、本来、弟のためにあてがわれるはずだった。しわ寄せを食らった父は、休日であろうとせっせと働き、そして私も、あくせくアルバイトをした。弟にしてやれることといえば、服を買って、お菓子を買って、夕飯を用意することくらいだ。
 服は私が手を出せる範囲で、いつも一番素敵なものを買ってあげる。今はまだ、何を着せても似合う年頃なのが羨ましい。もっと寒くなったら、ふわふわしていて暖かいミトンの手袋、毛糸の帽子、耳あて、マフラーなんかが必要で、私の財布はいつも弟のために膨らんでいる。
 夕方まで私が何をしていたかというと、主に睡眠をとっていた。昼食の代わりにラスクをかじり、コーヒーを飲んだりして時間を潰し、溜まっていた洗濯物を片付ける。少し眠りすぎたせいで、気がついた頃には日が傾き始めていた。
「夕飯。」私はふらりと立ち上がった。寝巻きからきちんと外向きの服に着替えたりして、身だしなみを整える。
 財布をトートバッグに詰めたところで、玄関のドアが開いた。

4 :No.01 クロコダイルバード (3/5) ◇QIrxf/4SJM :09/10/04 23:37:56 ID:w/cycMKx
「ただいま!」機嫌よさそうな弟の声がする。彼は傘を置いてブーツを脱ぎ捨てると、勢いよく私の方へと走り寄ってきた。
 私はバッグから手を離し、弟の頭を撫でる。ずれ落ちたサロペットの吊り紐をかけなおしてやった。「お帰りなさい。手は洗った?」
「あらってくる!」
 弟は駆け出した。
「元気ですこと。」陽子おばさんはゆっくり歩いてきて、テーブルの椅子に腰掛けた。
 水道の音が消えて、弟が戻ってくる。おばさんの隣の席に座った。
 私は二人の間に入り、膝で立つ。
「ママに会ったよ。もこもこのながぐつが羨ましいって!」
「それはよかった。」
「そのブーツ、あなたが買ってあげたんですってね。」
「お姉ちゃんは、いっぱい服をくれるよ。」
「新しいスモックも、私が作ったんだよね。」と言って私が頭を撫でてやると、弟は嬉しそうに頷いた。
「いい加減よしたら?」おばさんは、私にだけ聞こえるような声で言った。「よりにもよってそんな服ばかり――。そりゃあ、偉いことだと思う。けど、お下がりならうちの子のがあるし、困った時は頼ってくれていいんだよ。大変な時期なんだから。」
「大丈夫。夕飯だって、私が作れるし。」
 弟の服は、私のお下がりでは一切無いのだ。私がちゃんと働いたお金で、彼のために買ってあげたものだ。
「そうかい。」おばさんはさらに声を落とす。「あたしはもう帰るけどね、電話番号はわかるでしょ? 何かあったら連絡するんだよ。また来週来るけど、何か欲しいものがあったら言っておくれ。」
 おばさんは立ち上がって、溜め息を吐いた。
「かえっちゃうの?」
「あたしはもう帰るよ。今日は楽しかったね。」
「たのしかった!」
「ほら、送ってあげましょ。」と私は言った。弟と一緒におばさんの後を歩いて、玄関に出る。
 おばさんは黒い折りたたみ傘を鞄から出して小脇に抱え、弟の手を取った。
「風邪を引かないように、ちゃんと暖かくして寝るんだよ。」
 弟は頷いたが、ひとつくしゃみをした。鼻をこすって微笑む。
「あらまあ、今日はうんと暖かくして寝ないとね。それじゃあね。」
 おばさんは踵を返した。
「バイバイ!」と弟が手を振った。
 おばさんが玄関のドアを開けて、一度振り返る。
 私は彼女と目を合わせ、お辞儀をした。
「今日はどうもありがとうございました。」

5 :No.01 クロコダイルバード (4/5) ◇QIrxf/4SJM :09/10/04 23:38:12 ID:w/cycMKx
「いいんだよ。」
 ドアが音を立てて閉まった。私たちはリビングに戻って、ソファに腰掛けた。
 弟は膝を折ってソファに上がり、背もたれに両手を乗せた。
「ねえ、あれは何?」途端に弟が私の袖を引っ張る。ちっちゃな右手が、テーブルに置かれたアブサンを指さしている。
「あれはお酒だよ。」
「ふうん。きれいな色だね。」
「すごく不味いんだよ。」私は嘘を吐いた。そんなものは人それぞれだ。
 急に興味を失ったのか、弟はソファにきちんと座りなおしたかと思うと、私の膝の上に頭を乗せた。
 私は膝枕してやりながら、彼のめくれかけたスカートを直した。
「ママはね、もう少ししたら、みんなでどこかに行こうって。となりの部屋のおじさんは、竜に乗ったことがあるんだって! だから、ぼくもどこかに行きたいな。竜にも乗れるよって、ママが言ってた。」
「あの人は、もうイカれてるのよ。いつもいつも、何か言い訳をしては私との約束を破る。しまいには、言い訳の後にこう付け加えたのよ。『ほんの、ちょっとじゃない』ってね。施設を出る気? 無理に決まってる。量は関係ないでしょ。量じゃないのよ。わかってないんだ。」
 弟は首をかしげた。「竜じゃないの?」
 はっとして、私は言いなおす。
「ごめんね。竜よ。みんなでどこかに行くって、実現できたらいいね。竜をみつけたら、きっと背中に乗せてくれるよ。」
 私はわざとらしく何かを閃いたかのように目を開き、手を叩いた。「そうだ! 買い物に行こう。何でも好きなものを買ってあげる。」
「よるごはんは?」
「寝てたからまだ作ってないな。パパはいつ帰ってくるのかな? 今から作ってもいいけれど、ちょっと時間かかっちゃう。マックがいい?」
 弟は小さく唸った。「チューインガム。」
「それじゃ、お腹は膨れないよ。」私はおかしくって、笑ってしまった。
「エルマー読んでね。」
「もちろん。その前にやることはたくさんあるよ。晩ご飯を食べて、お風呂に入って、髪の毛を乾かして、それからね。」
「うん!」
 丁度、買い物に行くつもりだったのだ。私は弟を抱き上げてソファから降りた。
 玄関先で、弟にブーツを履かせてやる。
「ながぐつ、濡れなかったよ。」
「偉い、偉い。」

6 :No.01 クロコダイルバード (5/5) ◇QIrxf/4SJM :09/10/04 23:38:38 ID:w/cycMKx
 外はもうすっかり雨が止んでいた。ほとんど日は落ちていて、少し暗いけれど、気にならなかった。今日の夜空は曇りだろう。
 弟は、私の人差し指を握っていた。歩くたびにぺたぺたと音がするのは、アスファルトが濡れているからだ。
 服屋の店員のお世辞、『あら、可愛い妹さんですね』なんて尋ねてくる人も、雨上がりの道にはいなかった。
「ママったらね、」と弟は言った。「ぼくのことを、お姉ちゃんの名前で呼ぶんだよ。」
 私の足が止まる。弟を見下ろす。
「今、なんて言ったの?」声が震えた。「ねえ、今なんて、」
「ぼくをね、お姉ちゃんの名前で呼ぶの。」
 大して長くもない私の人差し指に絡み付いていた弟の手を、五本の指で包みこむように握った。つないだ手は、汗ばんでいた。熱くなった呼気を吐き出して、白い蒸気の行方を見送る。私は、母から弟を? そんなつもりではなかったはずだ――
「本当にそう言ったの?」
 聞き間違いと言って欲しかった。こうして膨らんだ財布で、この子に可愛い服を買ってあげるのは、純粋に良かれと思ってやったこと、そのはずだ。私は母と同じ? いいえ、画策なんて、一つもしていない。
 しゃがみこんでしまいたくなる気持ちを抑えて、私は弟に微笑んで見せる。
「うれしかったな。ぼく、お姉ちゃん好き。」弟は言って私を見上げると、無垢に笑った。「お姉ちゃん、なにを買ってくれるの?」
 弟が歩き始め、私も歩幅をあわせて隣を歩く。
「何でも、好きなものを買ってあげる。」
 弟は私の手を掴んだまま、首を傾げるでもなく、嬉しそうに頷いた。「ぼうつきキャンディ。――あ、でも、チューインガムのほうがいい。エルマーのやつだよ。」
「どっちも買ってあげる。桃色のやつ、あるかな?」
 微笑を崩してはいけない。
 弟の手を強く握る。
「どうしたの? お姉ちゃん。」弟が首をかしげた。「おなか、いたい?」
「なんでもないよ。平気だよ。」
 私は果たして正気なのだろうか。ただ可愛いと思ったから、そんなものは言い訳に過ぎず、きっと、可愛らしい女の子に仕立て上げられていく弟を眺め、悦に入っていた。この財布は、自分のために膨らんでいた。そうではないか?
 弟が首をかしげた。
 この子は、一つもイヤとは言わなかった。そこにつけこむなんて、母よりも悪いことをしている。
「チューインガムあげるよ」
 私はその無邪気な笑顔を見た。誰もくれとは言っていないし、買ってもいない。それなのに、ポケットの中にはもう入っているかのようにこの子は言う。
 思わず親指と人差し指で目頭をつまんだ。こんな私に、施してさえくれるのか? 強く瞼を閉じて、ゆっくり開く。下睫毛をこする。そのまましゃがみこんで、抱き寄せた。頬と頬をくっつけ、その小さな頭を撫でる。
「ぼうつきキャンディはね、ワニさんのだから。」
 私は何も言えなかった。はじけそうになるのを堪えて、肩が震えた。
「お姉ちゃんはトラさんだよ。ふかふかだもの。」
 謝ろうと思ったのに、それから感謝を告げようと思ったのに、この天使のような男の子のほっぺにくっついていると、口先は思ったように動いてくれなくて、気付けに唇を噛み、それでも勝手に口元は綻んで、「トラさんだぞ、がおう」と私は言葉を漏らした。



 |  INDEXへ  |  NEXT−ぬけがら◆VrZsdeGa.U