【 甘い毒に踊らされ 】
◆h97CRfGlsw




38 :No.11甘い毒に踊らされ 1/5  ◇h97CRfGlsw :09/12/27 23:39:40 ID:WEmsChNZ
 私は、父が笑顔を浮かべているところを見たことがない。では初めからそういう人間だったのかというと、
そういうわけでもない。――私が物心つく前に家を出て行ったあの人が、父の感情を根こそぎ奪っていったのだ。
「お前に縁談がある」
 抑揚のない低い声に、食事の手を止めて私は顔を上げた。広々とした机の上に、対面から見合写真が投げ落とされた。
端正な顔立ちの若い青年だった。幾度か、顔を合わせたこともある。確か父の会社に勤める役員、その息子だったように思う。
「……そう怒るな」
 爽やかな微笑みを湛える写真の男に目を細めていると、父が言った。どきりとして、私は慌てて襟元をただした。
私は表情を僅かにも歪めていない。急な縁談を不快だと思う、その感情を微塵も外には出さないよう、無表情に努めた。
 しかしそれでも、父には全て見透かされている。親の独断を煩く思う、子供の脊髄反射的な反発心を指摘されたわけではない。
父は、いや、私たち壬生屋の家柄の人間は、人の感情を手に取るように知ることができる。私の僅かな感情の揺らぎを、父は気取ったのだ。
「これがお前の為だ。高校も辞めていい。……考えておけ」
 父は食事を切り上げると、席を立ってリビングを後にした。残された食器を執事が片付ける音を意識の隅に、私は改めて写真に目を向けた。
彼との交遊はない。言葉を交わした記憶も微か。そこに愛など当然なく、兄のいる私に政治的な価値は薄い。それでも父は、写真を置いていった。
 私は少し、顔を歪めた。終始、父の感情は僅かも揺らぐことはなかった。私は、父が笑顔を浮かべているところを見たことがない。
彼の心は常に悲嘆にくれ、この世界に対する深い絶望に覆われている。――今はいない母が、父を変えてしまったのだ。
 写真をそっと、裏返して机に置いた。不作法ながら私は背もたれに体を預け、深く、息を吐いた。……私は、どうするべきか――

 人は、感情に支配される生き物だ。高度な精神活動はより複雑な意思を作りだし、それが人という存在を形作っている。そして、その感情を
民式できるという能力が、遥か昔に壬生屋という男に生まれた。彼はその力を生かしてこの世を生き抜き、末代は今も、現世に生き残っている。
 壬生屋の血を継ぐ、しかし私には興味のない話だ。そんな特殊な能力を欲しいと思ったことなど一度もない。だが、連綿と受け継がれてきた
この身に宿る壬生屋の血は、平等に私にもその力を分け与えた。
 感情は、それぞれ人が体に纏っている。オーラといえばわかりやすいだろうか。感情の動きに呼応して蠢き、周囲に光の波として発散され、
それは時に鋭く、時に柔らかく他者に放たれる。私は能力で、その光の軌跡を辿り、目に捉えることができる。
 この力の存在を、幸せだと思ったことはない。人の感情の動きなど、知ることができたところでなんの意味もない。戦い、自分を高めていくためなら、
その力は役立つことだろう。だが、普通の日々を生きる私にそれは過ぎた代物でしかなかった。
「壬生屋さん、今日は部の選考会です。参加するんでしたら、一緒に行きませんか?」
「……ああ。では少し、待っていてくれるかな」
「はい。今日は頑張りましょう」
 部活へ誘いに来てくれた学友の感情が、私に笑顔を向けている時もその実、なんの感情も抱いていないなどと、誰が知りたがったというのだろうか。
私も微笑みを返し、鞄に教科書を片して後に従う。――人との関係など、こんなものだとわかっていても、見せつけられれば、辛いものだ。

39 :No.11甘い毒に踊らされ 2/5  ◇h97CRfGlsw:09/12/27 23:41:56 ID:WEmsChNZ
 竹刀が弾け、部員たちが床を踏み鳴らす音を背に、私は一人道場の隅で正座をしていた。壁に体を向けて目を閉じ、
瞑想に耽る。頭に想い浮かぶのは、昨日のこと。縁談の話と、父の言葉だった。
 お前の為と言われても、私は見合など望んだつもりはない。あの写真の青年は確かに好青年のように見えたが、
だからといって、自分の一生を頼み預けるようなまねはできない。
 今まで碌に私のことなど構わずにきた父が、何故急にこんなことをと思う。気まぐれなのか、なにか目的があるのか。
まさかこんな勝手な話が、本当に私の為になると思っているのだろうか。澄ました父の顔を思い出して、少し、眉根を寄せ――
「みぃぶやぁー!」
 急な大声に背中を叩かれて、私は思わずびくりと肩を揺らした。次いで、まるで突き刺すような鋭い感触を後頭部に感じ、
咄嗟に頭を横に逃がした。すると一拍置いて、小手が凄まじい勢いで私の頭の横を通過していった。目を細めて、顔だけ振り返る。
「……また君か、神崎」
「また君か、じゃねえよ! なァんでお前はいつもいつも選考に出ねえんだよ!」
 神崎は生意気そうな顔を怒りに歪め、つんけんと上に跳ねさせた髪を揺らしながら私に歩み寄ってくる。今度ある大会の選考会は
どうやら終ったらしく、部員たちは各々部室へと引き上げて行く。神崎だけがその流れを割って、独りでいる私のところまでやってきた。
「それで、どうだったんだ? 今度の大会、君は出られるのか?」
「出られるもくそも、俺はここの連中なんかには負けねえんだよ。俺が大将、つまり俺が一番強い! ……と、言いたいけどな、壬生屋よォ」
 憮然とした顔の神崎に腕をぐいと掴まれ、私は無理に立ち上がらされた。そして彼は、私が傍らに置いておいた竹刀を取り上げると、
ほらよと言って差し出してきた。今にも噛みついてきそうな表情の神崎には私は苦笑を洩らし、仕方なく竹刀を受け取った。
「お前に勝たねえと最強は名乗れない。いい加減、決着つけてえんだよ、俺は」
「うん、そうかそうか、そんなに私に構ってほしいのか。可愛い奴だな、君は」
「だ、誰が! ……ふ、ふん、余裕じゃねえかこの野郎。いいさ、絶対にその顔歪ませて、泣かしてやるからな」
 彼は私と距離をとると、防具もなしに竹刀を構えた。当然、私も防具は身につけていない。道場にはまだ顧問の教師が残っていたが、
目をあわせるとそそくさと逃げて行った。対面の神崎からおい、と急かされ、私はわかったよと返し、構えをとった。
 剣道は、ずっと幼いころから続けてきた唯一の趣味だった。壬生屋の血の才能か、それとも私に元来あった気質なのか、私はとかく
負けず嫌いであった。負けたくない、勝ちたいと願い、必死で練習を続けるうちに、私は人並み以上に強くなった。
「うぅおォォ――!」
 なった、のだが。唸りを上げて突っ込んでくる神崎からは迸るような敵意が溢れ、それは赤らんだ光となって、神崎の竹刀よりも早く、
私の体を斬りつける。私はその光の軌跡に沿って体を反らす。一瞬早く動ければ、もう攻撃は掠りもしない。――私は実力以上に、強すぎた。
「甘いよ」
 面からの流れるような胴薙ぎは、既に見えている。体を半歩下がらせ、次いで横薙ぎの斬撃を竹刀の腹で受ける。神崎が舌打ちし、床を蹴って
後ろに跳ぶ。私は即座に追って距離を詰め、素早く彼の喉元に竹刀を突きこんだ。切先は僅かに喉を避け、代わりに首筋に赤く線を残していった。 

40 :No.11甘い毒に踊らされ 3/5  ◇h97CRfGlsw:09/12/27 23:43:05 ID:WEmsChNZ
「どうやら、今日も私の勝ちのようだ。さて、今日は何をおごってもらうとするかな?」
「い、いやいや、待て待て待て。もう一回だ。今のでお前の攻撃は完全に見切った! 今度は俺が勝つ!」
「……次は当てるぞ?」
 笑いながら言って、私たちは再び竹刀を構え、相対した。――私は、部活の大会などには出ないようにしている。例えば、相手が無心を極めた達人か、
私の知覚を超えるような速さの持ち主なら、いくら私でも勝ち得ないだろう。だが、同程度の実力、そして勝ちたい、負けたくないと強く願う相手なら、
私は負けない。感情が見える能力は、戦いにおいては役に立ちすぎる程に、あまりにも強力な武器だった。卑怯ともとれるくらいに。
 だから私は今、剣道を趣味にしている。私が出張ることで、きっと涙を飲む人が出てくる。だからこそ私は、たとえ嫌味な奴と揶揄されても、
孤独に竹刀を振ってきた。もう辞めてしまおうかと思ったことも、何度かある。そんな私が今でも剣道部に顔を出すのは――ただ、神崎が来いと言うからだ。
「お、ぐおっ」
 私の竹刀が、唸りを上げて神崎の脇腹に埋まった。彼は鼻っ柱をぴくぴくと引きつらせて顔を歪め、竹刀をとり落し、後を追うように崩れた。
あ、と口を開く。考え事をしていたせいで、必要以上に力を込めすぎてしまった。私も竹刀を放り、彼に歩み寄る。顔を覗き込むと、脂汗が滴っていた。
「だからいつも、防具をつけた方がいいんじゃないかと言っているだろう。いつか怪我をするよ」
「お、お前だってつけてねえだろうが……。大体なァ、お前こそつけろよ、女なんだからよ! こっちはやりにくくてしょうがねえんだ!」
「……ふふ、君は優しいことを言うんだな。私を叩きのめして泣かせてやるという、あれは口だけだったか?」
 怒声に笑みを向けてやると、神崎を覆う光がぶわっと広がった。彼は顔を上げると私を睨みつけ、竹刀を握り直し、懲りずに切先をこちらに向けた。
――縁談、か。受けろと命じるなら、受ける。だが、こうして彼と戯れる時間が失われるのは、残念なことに思えた。……とても、残念だった。

「旦那様と奥様は、それはそれは仲睦まじい夫婦でございました」
 その夜、リビングのソファーに沈んで本を読んでいた私に、執事の村田さんが紅茶を持ってきてくれた。老齢に差し掛かる彼は、
父が幼い頃からこの家に雇われている。彼は私からの礼を受け取って一礼し、しかし躊躇うようにその場にとどまり、やがてそう口を開いた。
「旦那様と奥様は、恋愛によってその関係を積み上げてきました。旦那さまから、恐れ多くもご相談を賜ったこともあります」
「……どうしたんです、急に?」
「不躾ながら私、昨晩の旦那様とお嬢様の会話、耳にしておりました。……お嬢様、見合いがお気になさらぬようでしたら、断ってもよいのですよ」
 そういう話かと、私は思わず苦笑した。彼は、当の本人である私より真剣に考えてくれていたらしい。難しい表情をしている村田さんに、
私は再度礼を言った。――父は、母のことを話したがらなかった。恋愛結婚だったのは、初耳だ。本を閉じ、体を彼に向ける。
「なら、父上は自分の結婚生活の失敗を、私にも味あわせたくないと、お見合いの話を持ってきたのだろうか」
「……無礼ながら言わせていただきますが、私が思いますに、あの離婚は旦那さまからの一方的なものでした。奥様は日々、お変わりなく
笑顔を浮かべてらっしゃり、旦那様のことを愛し、また慈しんでおられました。お嬢様はまだ幼かったので、ご存じないでしょうが……」
 ふわりと、彼の纏う光の色が暗くなる。苦しむように表情を沈めるのは、おそらく彼もまた、父と母のことを大切にを想っていたからだろう。
結婚生活の破綻は、父の責任でしかないと彼は眉根を寄せている。ならば何故、と私は僅かに首を傾げて少し考え、そして、ああと思った。

41 :No.11甘い毒に踊らされ 4/5  ◇h97CRfGlsw:09/12/27 23:44:54 ID:WEmsChNZ
「村田さん、母は、どういう人でした?」
「聡明で美しく、なによりお優しい方でした。彼女は、誰にも分け隔てなく笑顔を向けてくださる。……お嬢様は、奥様によく似ていらっしゃいます」
 言いながら口元の皺を深くする村田さんに、私は微笑みを返し、目を伏せた。――私たち壬生屋の力を、彼は、そこまで詳しくは知らない。
私は、今はいない母のことを思い浮かべた。きっと、もう一つある視点で見れば……父はきっと、ただ思いやりから、私に縁談を勧めたのだろう。
「――色褪せる光。徐々に消えゆくそれを見続けるのは、辛い」
 父の声だった。離れた場所にある扉に、父は佇んでいた。今の今まで不遜ともとれる言葉を発していた村田さんは、父の不意な登場に
色を失っていた。しかし父は、怒ってなどいなかった。相変わらない、暗褐色。父は村田さんに気にするなと告げ、席をはずさせると、歩み寄ってきた。
「止める言葉を聞かずにいれば……いすれ、必ず後悔することになる」
 父は私の頭に、そっと手をのせた。大きな掌だった。いつも通りの無表情で私を見降ろすと、彼は踵を返し、そのまま振り返ることなく出て行った。
ふと、神崎のことが頭に思い浮かんだ。なら……私は、どうするべきか――

「すまないが、君とこうして戦うのも、きっとこれが最後になる。悔いのないように竹刀を握れ」
 道場には、夕日が差し込んでいた。いつも通り、二人きり。そんな中、私が努めて軽い調子で言うと、神崎は動きを止めた。蠢く光に、動揺しているのが
手に取るようにわかった。なんだよそれ、と彼は小さく言ったが、私は聞こえないふりをした。彼が再び言葉を発する前に、飛びかかる。
 振り下ろした竹刀を、神崎は難なく受けた。私は主に、受け流し、返しの刃で敵を叩く戦法を得意としている。能力を有効に使うには、それが一番
効率的だからだ。だからというわけではないが、攻めあぐねる。纏う光を失せさせた彼は、呆然と私に相対している。そんなに、衝撃なのか。
「はっ、このままでは、私に一度も勝てないままお別れだな! 言っておくが、もう一度などという情けない頼みは聞かんぞ!」
「……っ、こンのォ!」
 挑発すると、神崎は顔を憤怒に歪めた。ぶあっ、と爆発するように敵意が迸り、私の体を斬り裂いた。胴薙ぎの一閃を、寸でのところで受け止める。
彼は道場を震わせる程に咆哮しながら、私に打ちかけてくる。畳み掛けるような連撃を、躱し、いなし、反撃の機会を待った。
 ――この怒りが、殺意にすら匹敵するような憤激が、何かの裏返しなら。私は、その何かに触れてみたい。しかし頭の中には、父の言葉がある。
考えに気をとられていると、高みから振り下ろされた竹刀が肩を掠めた。瞬間、私の胸元に、突き刺さるような感触があった。
 彼の予備動作は刹那のことだった。引き戻された竹刀は、そのままバネに押し戻されるような勢いで私に突っ込んできた。速い。うっ、と怯む間もない。
大きな壁が、そのまま押し寄せてくるような迫力。避けられない。身を竦ませる。しかし、彼の竹刀は私の鎖骨の辺りで動きを止めた。
 先程までと打って変わって、しんとした空気が道場に広がった。ゆっくりと、彼が竹刀を引き戻していく。……負けた。彼の動きは私の知覚を圧倒して、
先読みなどという小賢しい術を振り切った。不思議と、悔しくはない。これでいい、とすら思った。しかし、こちらに向けられた彼の瞳は、不貞腐れたように潤んでいた。
「……どうした、君の勝ちだぞ? やっと私を倒せたんだ、もっと嬉しそうに――」
「これが最後ってなんだよ、おい。お別れってどういうことだよ、ふざけんな!」
 彼の眉間には、深く皺が寄っている。いつもむっつりと不機嫌そうな神崎の顔が、ともすれば泣き出しそうにも見えた。彼は怒りに喚きながら、
竹刀を放り投げ、私にどすどすと歩み寄り、道着の胸倉を掴み上げてきた。挑むようにギラつく彼の瞳が、間近にある。

42 :No.11甘い毒に踊らされ 5/5  ◇h97CRfGlsw:09/12/27 23:46:28 ID:WEmsChNZ
「父に言われてね、結婚することになったんだ。学校も辞める。剣道も。君とも、これでお別れだ」
「……な、なんだよ、それ? け、結婚って、お前!」
 隠すつもりはなかった。私のおかれた状況を全て伝えると、彼はうろたえてくれた。その反応を少し嬉しく思い、反面、切なくなる。
父は――確かに母を愛していたのだろう。だからこそ……時が経つにつれ、少しずつ薄れていった母の感情に、耐えられなくなったのだ。
 感情が見える。初めはあったはずの、大きな愛情。どうしようもなく色褪せていくその暖かな光を、父はどんな思いで見つめていたのだろう。
母は笑顔を浮かべ続けていた。その実、その心は空虚だと知ることができてしまう父は、結果、母を追いだした。
 誰が父を責められるだろう。母が悪いわけでもない。余計な能力があったばかりに、信じるという、愛を維持するために必要なことができなくなった、
不幸な男がいた。それだけのことなのだ。そしてそれは、きっと私も同じ。確かにあったはずの大きな愛情が、消えていくのを眺め続けなければならない。
 だから、初めから何の感情もない相手の一緒になればいい。単純なことだ。良いがなければ悪いもない。父は哀れな娘に、救いの手をのばしてくれたのだ。
自分が経験した、辛く苦しい思いを味あわせないために。無表情に凝り固まった父親の、最後の愛情だったのだ。私は、それを嬉しく思った。
「お前、親に言われたからってそんな、いいのかよ! お前にだって、好きな奴の一人くらいいるだろ!」
「ああ、いるさ。だから私は……どうすればいい?」
 食ってかかる神崎に、私は言った。神崎の顔が、ぴくりと動いた。だが――なら、父は。ならば父はどうして、母と恋をした? 考えて見れば単純なことだ。
父にも祖父がいた。祖父にも曾祖父がいて、系譜は始祖の壬生屋まで遡るだろう。そして、代々父から子へ、告げられたはずだ。恋をすれば必ず傷つく、と。
 つまり、それだけのことなのだ。――それでもいい、と。たとえ、愛がいずれなくなってしまったとしても。そのことで、大きな傷を負うだろう。誰にすら心を閉ざす、
それほどまでに深い傷を。でも、それでもいい。そして、こうも思うだろう。――自分たちだけは、きっと違ってみせる、と。
「私は……君のことが好きなんだよ、神崎。見合いで結婚などしたくない。嫌なんだ。……だから、君に助けて欲しい。私を好きだと言ってほしいんだ」
「……み、壬生屋……」
「お願いだ、神崎。ここで君とお別れなんて、私は絶対に嫌――」
 言い終わる前に、彼の腕が私の体を包んだ。痛いほどの抱擁に、僅かに香る彼の汗の匂いに、彼の体温。そして、柔らかく包みこむような光。
これが、父の言っていたものか、と思う。優しく、暖かく。今この瞬間にあるこの感情の輝きは、やがてくる後悔を前にしても、決して揺らがないように思える。
 いつか、きっといつかは、永遠の愛が手に入る。そうして未来を願い、遥かな昔から連綿と、幾度となく繰り返され続けてきた後悔の嗚咽。でも、私は思う。
 おそらくこれこそが、人の本質なのだと。未来を願い、望み、あがきもがいて苦しみながらも、幸福な世界を求め続けていく。やがていつかは、その日が訪れると信じて――
「……ま、まかせろ。俺が、お前を助けてやる」
 ――などと、大仰な話をしてみたが、実際はもっと単純な事態なのだ。私の肩を堅く掴み、緊張と羞恥で凝り固まった彼の赤らんだ顔。
不器用で、明言を避けた格好良くもない言葉。お世辞にも、及第点とは言い難い。しかし、それでも今この瞬間、この胸の高鳴りが示している。
「ありがとう。……私は今、凄く幸せだよ」
 私は、彼のことが好きなのだ。さしあたっては――ただその一言で、全てを片付けてしまってもいいと、私は思った。
 願わくば、甘く幸せな「今」が、ずっと続きますように。



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