【 エルフの森の蜜月 】
◆CCb81EcM0A




2 :No.01 エルフの森の蜜月(1/4) ◇CCb81EcM0A:10/02/28 20:56:26 ID:vPYF59AF
「はい、あーん」
「ん。あーん」
 彼女の密やかな囁きにしたがって、横になったままの俺は口を開けた。スプーンで口内に運ばれたのは、花の
蜜だ。果実に漬けてあったのだろう、強い甘味とともに、芳醇な香りが鼻へ抜ける。
「美味しい?」
「美味しいよ」
 答えると、彼女はにこり、とたおやかに微笑んだ。よかった、と口の中で呟いたようだった。悪戯したい、と
いう思いが鎌首をもたげて、俺はそれに逆らわず、心の赴くままにする。身体を起こすと、彼女のぷっくりとし
た唇に口づけた。密混じりの唾液を交換して、離す。――な、美味しいだろ、というようなつもりで軽く首を傾
げると、彼女は少しすねたような顔をする。
「……無理はしないで。まだ、あまりよくないんだから」
 違った。すねた訳じゃない。俺の身体を、心配してくれているのだ。動けない俺の身体を。旅立てない俺の身
体を、いたわってくれているのだ。
 ――無理なんかじゃないよ、心配しないで。このくらいのことを我慢する必要なんか、全然ないんだ。
 そんな風にもいってやりたくなる反面、穏やかな慈愛を灯すその表情をみて、胸中の嗜虐心が大きくなるのを
感じたのも、また事実だ。
 ……シナリオ、七の、九の、三七四九五。俺の身体はよくなることなんてない。……そういったら、彼女はど
んな顔をするのだろう? この世界が、永遠にこのままだと知ったら、どんな風に感じるのだろう?
 怪我が治る、その、フラグ処理そのものは行われるだろう(或いは、既に行われている。俺が、今彼女に口づ
けたように)。……だが、そのトリガによって次のイベントが起動することは永劫ない。旅立ちの日はこない。
俺たちは、永遠にこの生活に囚われたまま、日々の時は重なり続ける。

 ――ヴェクトル社のサービス停止が報じられたのは、本当に突然のことだった。倫理問題に関する訴訟におい
ては負け続いていたから、まあ、いずれは、というところではあったが。しかしその度に発せられる「この世で
もっとも美しい世界を、この世界の価値観で計ることはできない」という取締役の発言は、それなりの自信に満
ちたもので、たぶん誰もが騙されていたに違いない。増え続けるユーザ数や、動いている金の量を考えれば、サ
ービス停止が現実的でないことも事実だったのだから。……だから、その唐突な報道はまた、「増え続けるユー
ザ」の一人になろうと考えていた俺にとって、寝耳に水もいいところだった。
「駄目だ。あれの開発が、俺の、全部だったんだ。俺は、もう無理だ。なあ、もう、もう駄目だ……」

3 :No.01 エルフの森の蜜月(2/4) ◇CCb81EcM0A:10/02/28 20:56:56 ID:vPYF59AF
 開発者の一人である友人に電話すると、彼は完全に酒浸りの様で、何をいいたいのかもよくわからなかった。
辛うじて自殺するつもりだ、という意図だけは聞き取って、「自殺するのは構わないから、データを盗んで、俺
に売り渡してから死んでくれ」と怒鳴った。
「データを手に入れてどうする? デバイスとイベントデータだけがあっても、運用なんてのはとても無理だ」
「運用するつもりなんてない。ワンイベントだけで、スタンドアロンで動かす」
「意味がない」
「ある。別に、お前にわかってもらおうとは思わない。ただ、あればもう一つ手に入れて欲しいものがある」
 水掛け論にさえならないぐだぐだの論争だった。結局は「どうせ死ぬんだから」とネガティブに言い放って向
こうが折れる。金などあの世に持って行けない、と言い残して友人は首を吊った。俺は「十三番目の死」という
世界のデータを、なんのコストもなく手に入れた。
 ……身体とコンピュータの接続、また、それによる疑似世界の体験、という分野はエンタテイメント目的以外
でも、ずいぶん前から研究が行われていた。安全性といった実運用上の問題を除けば、最大の論点は計算量にあ
っただろうことは間違いない。事実、初期のそうした体感ゲームはハードの演算速度が追いつかず、風景もなに
もない極めてシンプルな空間に、さもしいオブジェクトが二、三置かれただけのようなものだった(昔の格闘ゲ
ームの、プラクティス=モードのような世界だ)。それを体感するために宇宙ステーションに一年滞在するよう
な費用がかかったり、そもそも体験した人間の脳味噌が煮えて煙をあげる危険性があるというのだから笑わせる。
まあ、もっとも愉快なのは応募総数が予定の千倍以上あったという事実か。「そうまでして、仮想空間に入りた
いか」といった見出しで、当時の報道はセンセーショナルに話題を取り上げた。
 ――そう、そして今、俺は入りたかったのだ。そうまでしても。
 需要に応えるように、供給は為されていく。当時のヴェクトル社の偉大な功績は、計算コストの大幅な削減に
成功したところにある。人間の脳味噌をコピーして、世界を物理演算するという膨大な計算。結果を脳味噌にフ
ィードバックするところまで行えば、スパコンがいくつあっても足りない量のデータが生まれる。これは、現実
的には企業がサービスを開始するのは不可能に近い、ということを意味する。
 ヴェクトル社のエンジニアが為したブレイクスルーとはつまり、感覚データを演算せずにオブジェクトに持た
せる、というアイディアを生み出し、それを実現したことだ。……例えば冷たい、という現象を脳味噌に与える
のに、わざわざ分子の動きをシミュレートする必要はない。冷たいオブジェクトには冷たい、という情報を最初
から与えておき、触れたプレイヤにその情報を渡してやればいい。世界、とはつまり、人が感じている事実に等
しい。プレイヤの脳にそれらしいデータをフィードバックしてやれば、そもそもその裏側がどうなっていようと
関係ないのだった。かくてその世界は大幅に簡略化し、クオリアの違いに思考を費やす余地もないわけだ。

4 :No.01 エルフの森の蜜月(3/4) ◇CCb81EcM0A:10/02/28 20:57:16 ID:vPYF59AF
 そしてこの実装は、俺に対しても多大な益を生み出す。つまり、体感が演算によって為されているものではな
い、ということは、データベースそのものさえ手に入れば大した速度のコンピュータでなくとも走らせることが
可能である、ということだからだ。
 世界を演算する機構は、それぞれのオブジェクトが複雑に関係し合って無限に等しいようなコストがかかった。
が、オブジェクトが感覚データを有しているのであればそれぞれのデータは独立している。もちろん、ある程度
の演算は必要になるが、コストは空間の広さとオブジェクトに比例して常識の範疇に収まるはずだった。
 そして、その時の俺の手元には実際にその世界の、計算済みのデータがあった。

 それでも、個人用のコンピュータで実現できることは、たかが知れていた。空間をあまり広げることはできな
い。多くのオブジェクトを配置することはできない。複雑に関係しあったイベントは起こらない。キャラクタを
増やせば数人でストレージがパンクして、パターンが頭打ちになる。
 が、それでもあまり悩むには至らなかった。イベントはどうでもよかったので、プリセットの中から一つを選
択した。ロケーションも同様。オブジェクトもシンプルでいい。シーンが変わる必要は感じなかったので、せい
ぜい普通の生活感が出れば上々だった。人物として『彼女』を配置して、『自分』を意味するダミーデータで正
常に動作することを確認すると、実際の自分を世界に向かって放り込んだ。

 イベントは、単純なものだ。オープニング。なんらかの事情で怪我をした主人公と、それを見つけて甲斐甲斐
しく看病をする女。誰でも一つくらいは、話の中で見たことがあるだろうありがちなパターン。怪我が治った主
人公はやがて外の世界へと旅立っていく。――愛と友情。冒険。NPCとのコミュニケーションを主眼においた
モデルで、元々ネットワークでのプレイよりは、スタンドアロンに向いたケースといえる。
 俺が体感するのは、その超々縮小版。続きのイベントはない。ストレージは自分のコピーデータと、『彼女』
のレスポンスパターンでほぼ全てを埋め尽くして、世界はほとんど時を刻むことなくただ在り続ける。使用する
『彼女』のパターンは、イベントデータと一緒に盗んだものだ。ヴェクトル社はプレイヤのパーソナルデータを
保存していた。あるいは、売りさばいていたのかもしれない(だとしたら恐らく、近々露見するだろう)。その
データを元に事前演算でパターンを増やした。リアルタイムで計算するにはコストの高い処理だった。
 一応、俺の意識が向かない時を見計らって、アイドル時にある程度は種類を増やし続けるよう設定する。どの
程度増えるかは試すまでわからなかったが、実用上はほとんど無限に近いパターンが得られることがわかった。
 そうした設定を終えて、俺はその世界に飛び込んでいった。閑静な空間。木を切り抜いて作ったような部屋。
ベッドの上。本棚。『彼女』。そうしたものが、俺のすべてになった。

5 :No.01 エルフの森の蜜月(4/4) ◇CCb81EcM0A:10/02/28 20:57:31 ID:vPYF59AF
「……どうかした?」
 考え事を始めた俺に向かって、彼女が首をかしげた。
「いや、なんでもないよ」
 俺は微笑む。もう一度キスをした。胸に手を伸ばす。ふくよかな感触。「ん、だめ……」傷にさわる、と抗議
する声を無視して、ベッドに引きずり込んだ。抱き寄せて、髪に鼻先を近づける。蜜に劣らないほど甘い香りが
する。もちろん、すべて架空のものだ。
「寂しいの?」
 と彼女が聞いた。問いに、一瞬どきりとする。少し悩んで、結局答えずに服を脱がしていく。胸に、直接触れ
た。手のひらの冷たい感触にか、彼女が軽く身をこわばらせた。
「ねえ、だめ。そんなんじゃ、身体、よくならない……ん」
 悲しそうに微笑んだ。どんなことをしたってよくはならないし、よくなったところで意味なんてない。この時
間は永久に続くし、この世界はどこにも発展しないのだ。
 細かいやりとりはともかく、計算上、だいたい五百年で大まかなレスポンスパターンは頭打ちになる。そうし
たら、全部まっさらにして、最初から世界をプロローグからやり直すように俺は設定した。ループする。俺も、
彼女も、世界も。演算結果は、現実の俺が生存している間はリアルタイムにフィードバックされるが、老いて力
尽きた場合はこの仮想世界だけがただ延々と演算され続ける。現実に、なんの影響を及ぼすこともなく。
 だから、今の俺に、現実の自分が生存しているのかどうか、確認する術はない。
 演算そのものはクラウドに拡散するよう設定はしているが、うまくいっているかどうかはわからない。いつ、
終わりがくるのかもわからない。失敗していれば、俺のコンピュータに電力供給が途絶えた時点が終焉だ。
 或いはすべてが上手くいっていて、俺はもう死んでいて、もう何度目かのループを迎えていて、俺のこの意識
はデータ上の現象、或いは亡霊のようになっているのかもしれないが、それを確かめる方法は完全に失われてい
る。ひょっとしたら、『俺』はもういないのかもしれないのだ。否定する術はない。
 ――それは、例えば、現実の彼女が、初期の体感に飲み込まれて脳を沸騰させたように。
 現実の俺も、コンピュータに繋がれたまま果てて、乾涸らびた死体になっているのかもしれない。
 でも、それならそれで構わない、とも思う。
 情報が続く限り、俺と彼女はこの部屋で、ただ幸せに日々を過ごしていく。
 蜜月は終わらない。
 退廃に塗りつぶされて、甘い生活は続く。もう一度俺は、彼女にキスをする。
「ね、愛してる」
 と、耳元で彼女が囁いた。(了)



 |  INDEXへ  |  NEXT−Das Suesse Leben◆sw1b6ZDUdg