【 Forget me not 】
◆pxtUOeh2oI



30 名前:No.07 Forget me not 1/5 ◇pxtUOeh2oI 投稿日:10/03/21 23:14:32 ID:SKyf6FOR
 なんで、こんな痛いおもいをしてるんだろう?
 私は階段を歩いていた。夜の病院で、息が弾む。震える足が、異物を上げる。お腹が痛い。いや、体中が痛い。
隣には優しく大きな看護婦のおばさんがいて、笑顔で残酷な言葉を贈ってくれた。
「ほら、がんばって、がんばって」
 夜の夜中の深夜二時。ここは、病院の産婦人科で、私はお世話になっている妊婦だった。私はお腹のなかにい
るまだ見ぬ娘か息子の為に、もっと言えば陣痛とかいう痛みの感覚を短くする為に、階段の上り下りを繰り返し
ているのである。
 まったく意味がわからない。
 お腹が重いのだ。お腹が痛いのだ。別に食べ過ぎた訳じゃなく、自分じゃない他の生き物がお腹にいるという
だけの話で。なんでこんな状況で、汗まみれになって階段を上らねばならないのだ。お腹が痛いのに、なんで階
段を下らねばならないのだ。階段とはどこかへ行くための過程ではないのか? 何故、上り、何故、下る。私は、
いったいどこへ行こうというのだ。
「何で、こんな痛いんでしょうね」
 私は疲れ果てて、どうでもいいやと呟いた。もうよくわかっていない。
「女ばっかり、なんで、いつも痛くて辛いんでしょう?」
「さあ、なんででしょうね」看護婦さんは奈良の大仏みたいに微笑む。「はい、足をあげて。いち、に。いち、に」
「私、ずっと生理不順で、小学生の頃に来てからいつも頭が痛かったんです」
 上げた足が、階段の一番上に下ろされた。看護婦さんに支えられて、Uターンして階段を下り始める。
「はじめてのエッチのときだって、痛くて全然、気持ち良くもないし。好きな人だったんですけどね」
 何を話しているのか。目の前があやふやで、非常灯の青年が今にも走り出しそうに見えた。
「それで今は、子供のためにこれですよ。全部、子供を産んだりする関係の痛い眼。男もなんかあるんですかね
え? オナニーのやりすぎであそこが痛いとか聞きますけど」
 声を出して笑った。それから「ぜえはあ」と喘ぐ。
「子供が生まれる瞬間、手を骨折した旦那さんがいらっしゃいますよ」
 オナニーのしすぎで? いや、そんなわけないか。変な笑いが止まらない。だけど、出るのは喘ぐ声。
「立ち会い出産で、妊婦さんが旦那さんの手をしっかり握ってらしたんですけど、産むときにリキむ力が凄すぎ
て旦那さんの手を握りつぶしちゃったんです」
 なにそれ、おかしい。なんて美しい愛の形だろうなんて、どこかのマークにでもすれば良いんだ。握りしめら
れて粉々になった手のマーク。
「今日はどうします?」看護婦さんがこちらを見て楽太郎みたいに笑った。


31 名前:No.07 Forget me not 2/5 ◇pxtUOeh2oI 投稿日:10/03/21 23:14:49 ID:SKyf6FOR
「大事に握って、潰します」私は歌丸みたいな手を胸の前でぎゅっと握りしめ誓った。
 そんなことを話していたら、あの人のつまらない顔が浮かんだ。お腹が大きくなったので全然していない。産
んだらすぐできるんだろうか。あまりそういうことは教えてもらえないのでわからない。産んですぐなら、胸も
少しは大きくなっているだろな。
 あ、と足がふらつき、転びそうになった。奴に中から蹴飛ばされたのだ。母親を蹴るなんて、生まれる前から
なんたる反逆児なのか。だけど、そのおかげか、陣痛の感覚が早まった。というかもう耐えられないぐらいきつ
い。ふとももを水のようなものが流れていくのがわかる。おもらしではない。多分、きっと、確実に破水って奴だろう。
「看護婦さん……」
 私は息も絶え絶えで彼女に話す。
「あらあら、じゃあ産みに行きましょう」
 彼女は、海に泳ぎに行くかのように飄々として言う。それから踊り場の数字を見て死の宣告を繰り出した。
「ただ、出産室は、二階なのであと一階分だけ上がりましょうね」
 目の前にはエベレストのようにそびえる階段。私の胸はせいぜい高原。ポーリュシカポーレなんて歌い出しそ
うに弾んでいる。なのに、上れと言うのだ。なのに、上がれと言うのだ。ミュージカルならば歌って踊ってくるくる回りながら楽しそうに上るのだろうが、私はもう死にそうなのだ。
 私は、必死に上った。上がりきれば天国にでも辿り着くかのように。子供を産むためには、階段を上らねばら
ならない。そんなことは保健の時間に教わったことはないけれど、逃れようがない現実なのだ。
 上り切って廊下に出ると、私は倒れ込むようにベンチにすがりついた。もう歩けない。もう進みたくない。こ
こで産むから許して。
「何、してるの。まだ着いてませんよ」
「あの動くベッドみたいなのは……」
「ストレッチャーなんて使いませんよ。旦那さまも先に行ってくれてますから、ほら、歩きましょう」
 鬼がいる。優しい笑顔の鬼がいる。私は鬼の言葉に鞭打たれ、馬車馬のごとく出産室を目指した。
「なんで、女ばかり痛いんでしょうね」私を支える看護婦さんが呟いた。
 それはさっき、私が呟いた泣き言だった。看護婦さんが続ける。
「でも、多分、必要なんですよ。アメーバが増えるとき痛いなんてことないでしょうし、魚だってぽんぽん卵を
産みます。それが陸にあがって、鳥はちょっと辛そうに見えますよね。ほ乳類は卵ではなくなったから余計に大
変そうです。さらに人間になって、一度に一人だけをじっくりと産むようになった。だんだん辛くなっていって、
痛い思いをするように進化してきたんです」
「それじゃあ、悪いのは神様ですかね、ちょっと殴れそうもないです」私は疲れ果てて笑う。
「じゃあ、代わりにぱっぱと産んでしまいましょう」


32 名前:No.07 Forget me not 3/5 ◇pxtUOeh2oI 投稿日:10/03/21 23:15:12 ID:SKyf6FOR
 そんな軽いこと言うなよ、と看護婦さんを見たけど、彼女の笑顔を見たら少しだけ気が楽になった。
 出産室に辿り着くと、私は皆に持ち上げられベッドに乗せられた。それから足を広げられ、固定され、シート
を被せられたりなんかして、まな板の上の鯉よろしく準備が進んで行くのを眺めていた。
「がんばれよ」旦那が手を握りってくれて励ましてきた。
「お前もがんばれよ」なんてことを言わずに、「うん」とだけかわいく返して旦那の手を握りしめた。
「旦那さん、手を放してください」近くにいた若い看護婦が注意する。
「えっ?」この人は、不思議そうに私と看護婦の間で視線を動かす。
 私は放さないようにぎゅっと握った。心細いのだ。私はか弱き乙女で、儚くも生まれてしまった花の化身なの
だ。まさか放したりしないよな? え? あ?
「骨折してしまいますよ」続く看護婦の注意。
 旦那の手がするりと放れる。理解の早い、頭の良い奴だ。まるで悪魔から逃れるかのように素早かった。
「では、始めましょう。いきんで」
 え? となった。「いきむ」とはどういう動作だろうか。そうえいば教わった、あの変な息づかいをすれば良
いのだろうか? 名前はなんと言ったか、忘れてしまったが。
「あの、どうすれば……」私は不安げに言う。首を曲げて旦那を見ると何故か頷いてた。
「トイレの大をするような感じで」大仏看護婦が腹に手を置いて言う。
 その感覚はわかりやすかった。私は日夜、便秘に悩まされる者であったから。が、しかしだ、人の子供をうん
こ扱いするというのはどういう領分か。
 私は、うんこを出す要領でリキんだ。さらに看護婦がお腹を押す。あっとした刹那、いくらか出てしまったよ
うに思う。子供ではない茶色いものが。でも、それは気にしないお約束というものだ。こんな衆人環視の元で股
を広げているのだから恥ずかしさなどあったものではない。何より、痛い。ただ痛い。さっきから続いていた痛
みがよりいっそうの激しさを増して行く。波などではない、常時、連続で、ふんどしの男が汗をほとばしらせな
がらバチで太鼓を叩くように、腹が刺激に襲われている。フンフン、ハアハア! かけ声が、かけ声が聞こえる
のだ。ふんどしの男が? 否、声を出しているのは私だった。
「はい、大きく息を吸ってー」
 言われるがまま、息を吸う。
「はい、いきんでー」
 言われるがまま、うんこを出すように力を込める。
「はい、はいてー」
 言われるがまま……、何をはくの? ズボンを? ゲロを?


33 名前:No.07 Forget me not 4/5 ◇pxtUOeh2oI 投稿日:10/03/21 23:16:01 ID:SKyf6FOR
 口から空気が漏れだして、天井のライトが眩しかった。失礼しますとかいう声が聞こえて、気付くと大仏看護
婦が、腹の上に座っていた。背中向け騎乗位。乗ったことはあるけど、乗られたことはないぞ。
「頭が出てきましたよ−」ひとの腹の上で揺れる看護婦が言った。
 そんなに押すなよ、痛いだろ。頭が出てきたって? そんなところから人の股ぐらを除くんじゃない。
「がんばれ、頭出てきたって」
 旦那が興奮して顔を赤くさせて言う。なんという、ひとり浮かれポンチ状態だ。で、開かれた股の方へ行くの
だ。少なくとも愛しい嫁の心配をしている様子ではない。好奇心という名の立ち会い出産。
 そして倒れた。旦那が。ふらと揺れ、ぐらりと揺らぎ、背中からでーんと倒れて、眼鏡がふっとぶ。
 顔が一瞬にして青くなっていた。嫁の股から、こんにちは、した子供がそんなに怖かったというのか。愛は何
処へ。というかお前、邪魔だから外に出てろよ。
「大丈夫です、よくあることですから。今はお子さんのことだけ考えてください」
 看護婦さんは何事もなかったかのように旦那の脇に両腕を入れると死体を運ぶようにずりずりと部屋の隅に旦
那の遺体を持っていった。あなたの死は無駄にしません。この子は私が大切に育てます。だから早く生まれろお前。
「もう少し、あとちょっと、はい、力をいれてー」
 目の前にそびえる看護婦の広い背中に違和感を持つことなく、襲いかかってくる痛みを忘れることもできず、
ただただ腹から出てくれることを祈って力を込める。生まれたらきっと気持ちが良いのだろうか。便秘が解消さ
れるみたいな感じなんだろうか。
「はい、出ましたー」
 何が? うんこがでちゃった?
「生まれましたよ。お母さん」
 嘘、まだ痛いんだけど。というか見れないよ。どいてよ。生まれたのなら見せてよ。
「臍の緒、切りますね」看護婦が私の腹の上からお降りる。
 そして聞こえる、はさみが何かを切断する音。がやがやとした医者たちの音。それから私の喘いでいる声。あ
れ? 赤ちゃんの泣き声は?
 首をひねって、看護婦たちの隙間から抱きかかえられている血塗れの物体を見た。ただの赤い固まり。あれが
私の赤ちゃんなの? どうして泣いてないの? まさか……死んで……。
 赤ん坊の泣き声が、紅白の部屋に、盛大に響きわたった。
 大仏看護婦が、背中と尻を叩いたのだ。痛いからなのか、何か詰まっていたものをはき出したからなのか、そ
うやって私の赤ちゃんが泣き始めたのだ。
「ほーら、お母さんですよ」看護婦が優しく抱いて私の顔の前へ連れてきてくれた。


34 名前:No.07 Forget me not 5/5 ◇pxtUOeh2oI 投稿日:10/03/21 23:16:26 ID:SKyf6FOR
 私はずっと握りしめていた手の緊張をゆるめて、ゆっくりと赤ん坊の顔の方へ動かす。髪も何もない赤ちゃん
の頭は柔らかく、血でべとべとに汚れていた。まるで、猿のようにしか見えない顔なのに、大切だと思えた。
「この子、泣くの遅かったですか?」
「いいえ、みんなそう言うのよ」
 私の足が拘束から放されて、ゆっくりとベッドに下ろされる。
「なんで痛いのかわかった?」
「はい、なんとなくですけど」
「みんなそうだからね」大仏が微笑む。
 私の赤ちゃんが看護婦によって運ばれていく。血を落として綺麗にしてくれるのだという。私は、たった今、
見た光景を頭の中で繰り返していた。さっきまでの痛みと一緒に、何度も思い出していた。
 私は、きっと楽しそうに微笑んでいただろう。
 私は、本当に嬉しく思っていたのだろう。
 人は進化によって、痛みを得たのだ。なぜならば、それが必要だったから。
 ベッドが動かされて運ばれていく。部屋から出る一瞬、お湯で洗われている私の赤ん坊がちらっと見えた。ま
た、後でね。これからよろしく。今は、しばしのお別れってね。
「よく頑張ったね」廊下に出て、大仏の看護婦が慈悲深い笑みで言った。
「はい」私は、ちょっとだけ泣きそうだった。
「でも、本当に大変なのはこれからだから」大仏が、悪魔の微笑みで言った。
「え?」私は、きっと生まれたての赤ん坊みたいに世界に驚愕していただろう。
「みんなそうなのよ」
 私は、ちょっと本気で涙をこぼしそうだった。
 Cry Baby。赤ちゃんと一緒に泣いちゃおうかって思うぐらい。               <了>


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